【イギリス公使パークス】 泉岳寺は忠臣蔵の赤穂浪士の墓で名高いが、幕末外交交渉の舞台としても使われている。安政六年(一八五九)八月、横浜で発生した最初の殺傷事件であるロシア軍人にたいする暴行犯人の逮捕について、当時品川沖に停泊中であったロシア軍艦艦長ウンコースキーと外国奉行溝口讃岐守(直清)らがこの泉岳寺で対談を行なっている。また、慶応元年(一八六五)六月、新しく着任したイギリス公使パークスは、幕府にたいし泉岳寺およびその隣接地をイギリス外交官の宿舎としたい旨申し入れ、翌月幕府はそれを許可したものの、パークスの同公使館を洋風にしたいとの希望を拒否したと記録に残っている。パークスは、アヘン戦争時に中国に渡り、通訳、上海領事などを経て来日、東洋人の心理をわきまえ、時には恫喝的態度をとり、豊かな情報とするどい分析と相まって在日外交団のリーダーシップを握っていた。
さらに、翌年三月外国人接遇所が同寺境内に完成し勘定奉行駒井甲斐守(朝温)らが、それを検分した。外国人接遇所は赤羽にあったほうが有名であるが、泉岳寺に設けられたものはいわゆる高輪外国人接遇所として知られている。しかし、この接遇所がイギリス仮公使館と同じ建物であったかどうかは不明である。しかし、勘定奉行駒井朝温らの検分から約一カ月後、幕府はイギリス公使館書記官ユースデンにたいし泉岳寺内の新築公使館を設計変更することを通告し、和風のまま使用していた仮公使館が部分的にせよ洋風に改められ、正式に公使館を設けるにいたったことがわかる。通訳を勤めていたアーネスト・サトウの記録『一外交官の見た明治維新』にも、泉岳寺に宿泊していたことが書かれている。
泉岳寺は、国の史跡に指定されているが、それは赤穂浪士の墓のためであり、外交上の理由でないことはいうまでもない。