【プロシア使節オイレンベルク】 赤羽接遇所は、安政六年(一八五九)三月、芝赤羽の公武所付調練所跡が外国人のための宿泊所に指定され、同年八月に建設されたものである。接遇所は外国人旅宿、外国人応接所などとも呼ばれ、万延元年(一八六〇)七月、プロシア使節オイレンベルクが修好通商条約締結のためここを宿舎として、老中安藤対馬守(信正)と交渉を行なっている。オイレンベルクは接遇所の模様を次のように記している。
私の宮殿は大変に長い一階建ての家で、壁も窓もみな木でできていてあけることもとりはずすこともできるようになっている。窓ガラスの代わりに、油紙が使ってあり、これは透明ではないか光がとてもよく入ってくる。
この家は、全部ベランダをめぐらせてあり、それから芝生、黒い板べいがあってわれわれを捕虜のようにとり囲んでいる。床は非常にきれいでやわらかいワラのマットになっている。
また、ベッド、テーブルがあり、大広間には十四脚の椅子もあった。
この赤羽接遇所を舞台として、オイレンブルクは日本側と交渉した結果、万延元年(一八六一)十二月、日普修好通商条約および貿易章程の調印をおこなったのである。
【医師シーボルト】 また、赤羽接遇所は文久元年(一八六一)五月から同十月までシーボルト父子の宿舎ともなった。シーボルトはドイツ人の医師でオランダ東インド陸軍病院付少佐としてジャワに赴任し、ついで長崎出島商館の医師として日本研究を命じられて文政六年(一八二三)に着任、鳴滝塾を開いて西洋医学および一般科学を教えた。帰国にあたり日本地図および輸出厳禁の品目を持ちだしてシーボルト事件をおこし、いったんオランダに帰ったが再びオランダ商事会社社員として来日し、やがて幕府の顧問となって江戸に滞在。その折に子供のアレキサンダーとともに幕府にたいし外交上、貿易上のさまざまな助言をおこなった。シーボルトの門弟には高野長英、戸塚静海、伊東玄朴などの優秀な人材がおり、日本の近代化に果たした役割も大きい。また、このほかにロシアの公使ゴシケヴィッチが、幕府と交渉のため上京した折も、この赤羽接遇所に宿泊している。