(8) 東禅寺(高輪三丁目一六―一六)

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【イギリス公使オールコック】 東禅寺は、慶長十五年(一六一〇)に麻布に建てられたが、寛永十三年(一六三六)に現在の高輪に移転した。
 安政六年(一八五九)イギリス初代公使ルザフォード・オールコックが江戸にはいると、同寺は幕府からイギリス仮公使館に指定されたが、当時の攘夷の風潮を反映して、寺院内には十個所余りの番所がつくられ、番士が日夜交代で警備した。オールコックの手記『大君の都』は、次のように記している。
 
  公使館は、江戸のもっとも大きな寺のひとつの接待部屋にかりに設置されていた。寺のまわりには木を植えた広大な美しい庭園があり、寺自体は隣接した建物をもふくめて、不規則なかたちの広大な場所であった。谷間のもっとも低いところにあって、そのまわりを常緑樹のカシやカエデや灌木がとり囲んでおり、四分の一マイルにわたって、灌木林がジャングルのようになっていた。東海道に出る横道が裏手の丘の上を走っていた。……公使館の入り口に直接に通じているひとつの中庭には周囲に柵が設けてあって、門が閉めてあった。この道や庭のなかには、いつも夜は閉めてある外の門と内の門のあたりに人足がいたし、大君や大名の兵士一五〇名が護衛として配置されていた。
 
【東禅寺襲撃事件】 このイギリス仮公使館の東禅寺には二回にわたって攘夷派の浪人が乱入し、いわゆる東禅寺襲撃事件が発生している。第一回は、文久元年五月二十八日(一八六一年七月五日)夜、水戸藩の浪人十四人が押し入ったものである。書記官のオリファント、在京中の長崎領事モリソンは負傷したが、オールコック公使は奇跡的に難をのがれた。英国人の負傷二名を含めて警備側・浪士側ともに数名の即死者と多数の負傷者を出した。
【『大君の都』】 この事件についてオールコックは、「翌朝夜があけると、公使館はいかにも襲撃され荒らされた場所らしい様相を呈していた。入り口の正面の羽目板は破られ寺と広間の仕切りは投げ倒されていた。通路の床と壁には、血が飛び散り、障子はへし曲げられ、どの部屋も切りつけたり刻んだりしたあとがあった。まるで襲撃者たちは、かれらの武器の強さと刀の鋭さの証拠をはっきりのこしておきたがっていたようだった。かれらは、邸内の部屋を全部駆け抜けていた。こなかったのは、つき出たはなれと、反対側のはしにある私の部屋だけであった。かれらがよりによって第一にさがしもとめていたこの部屋を見のがしたことは、まったく不可解で想像しがたいくらいだ。もし彼らが裏手から来たとすれば、わたしはきっと殺されていたことだろう。なぜなら、丘からうねった道が下ってきて、まっすぐ私の寝室へ通じていたからである。」と記している(『大君の都』)。
 第二回は、文久二年(一八六二)三月に発生した。オールコックが所用で帰国し、ニール代理公使が東禅寺にはいってまもなく、第一回目の浪士乱入一周忌の夜に寺の警備のすきをついて、松本藩士伊藤軍兵衛が長槍を持って、公使館の庭に忍び入り英人の見張りを刺し殺した。このさわぎで全員ただちに警備態勢をととのえたが、軍兵衛はその場をのがれ、自宅において自殺したという事件があった。
 現在でも東禅寺には、玄関に弾痕が残っており、当時の模様を物語っている。
 なお、イギリスのほかに、万延元年六月十七日(一八六〇年八月三日)ポルトガル使節ギマレースも、日葡修好通商条約を調印するさいに東禅寺に宿泊している。