(9) 長応寺(高輪二丁目―一)

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 長応寺は、オランダその他の使節の宿舎として使用された。
 同寺は、明治三十五年(一九〇二)に北海道へ移転し、現在港区内には存在しない。その旧所在地は、住宅等になり、外国公館の設けられた当時の状態、寺院であった時代の模様はまったく残っていない。往年の切絵図、あるいは明治初年以降の地図によって推測すると、もとの芝伊皿子町二一ないし三一番地の土地を占めていたらしい。
 正式に公館として使用せられた時期も、正確ではない。これまでに、明らかにされた文書によって知られるのは、つぎのような断片的な事実に止まっている。
【オランダ総領事デ・ウイト】 安政五年七月十日(一八五八年八月十八日)日蘭修好通商航海条約が締結され、幕府はオランダ国外交官の江戸常駐を認め、長応寺がその公館にあてられた。初代代表は理事官のドンケル・クルチウスで、続いて総領事となるため、安政六年十二月九日(一八六〇年一月一日)にはデ・ウイトが着任した。
 東禅寺のイギリス仮公使館襲撃事件が発生した直後、幕府は同様な事件の発生をおそれて長応寺の警備を強化している。しかし、身辺に危険を感じたデ・ウイト総領事は一時長崎へ退去する旨通告し、幕府もこれを許可している。
 文久二年(一八六二)八月、外国奉行の竹本隼人正(正明)が、同寺内でデ・ウイトと会見し、御殿山に公使館を建設するその設計について討議を行なった。御殿山の公使館は、オランダとイギリスの新公使館を建設する目的でこの会見の前月十一日に、幕府がその許可を決定したものであった。しかし、この公使館は、同年十二月十二日にイギリス公使館が竣工まぎわに長州の高杉晋作らに焼討ちされてとりやめとなった。
 文久三年六月十六日(一八六三年七月三十一日)フォン・ポルスブルクが代弁公使に任命され、このときから長応寺は仮公使館になったといえよう。
【スイス使節アンベール】 長応寺は、スイスの外交使節の宿舎としても使用された。スイス使節アンベールが、横浜から江戸に到着し、長応寺へはいったのは、文久三年(一八六三)四月十二日である。
 同寺は、オランダと共通で使用したわけであるが、安政六年(一八五九)九月二十六日の神奈川奉行にたいする信任状提出にもオランダ副領事の協力を仰いでいる。宿舎の決定に当たってもオランダの協力で長応寺を共用することになったと思われる。
【『図説日本』】 アンベールは、文久三年(一八六四)十二月二十九日に、幕府と修好通商条約に署名することに成功し、文久四年には日本を去っているが、この間の日本滞在で見聞した記録は、『図説日本』として公刊されている。
 なお、条約締結以後は、また、オランダが明治三十九年(一九〇六)までスイスの委任を受けて駐日外交事務を代行していた。
【ベルギー、デンマークとの交渉】 また、長応寺はベルギー、デンマークとの外交交渉の場としても使われた。慶応二年(一八六六)六月十五日、横浜に来着していたベルギー特派公使兼総領事オーギュスト・ト・キントは江戸に出、日本側全権外国奉行菊地伊予守(隆吉)らと十六日長応寺内で会談した。日白修好通商条約の締結は、同月二十一日、条約本書の交換は翌三年八月十三日であった。
 また、デンマークとの条約の交換は、オランダ総領事のポルスブルクが、デンマーク全権となって、同じく長応寺内で行なわれた。