(12) 大中寺宿寺(天暁院)

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【ロシア使節ムラヴィヨフ】 大中寺(曹洞宗)は、三田の天暁院を江戸における宿寺としていた。現存はしていないが、大中寺宿寺が外交上の施設となったのは、安政六年(一八五九)七月二十日、品川にムラヴィヨフ、箱(函)館在勤のロシア領事ゴシケヴィチらロシアの使節一行が到着し、その宿舎にあてられたためである。
 ムラヴィヨフは、品川海上のロシア軍艦上で二十三日に日本側の応接掛と対談してのち、二十四日に上陸した。高輪から軍楽隊を先頭に三〇〇人の兵士を引き連れて行進し、大中寺へはいったという。
 ゴシケヴィチは、日露修好通商条約の批准書交換のための全権として来日したものであり、その交換は八月五日に行なわれた。ムラヴィヨフは、かねて懸案の樺太境界談判を行なうのが目的であった。七月二十六日に、その最初の会合を愛宕山にほど近い天徳寺で行なった。
 この談判は、さらに同寺や品川のロシア艦上で行なわれたが、結局不調に終わり、決着をみたのは、明治政府となってからであった。ロシア使節らが大中寺宿寺を去った日時は明らかでないが、八月の下旬には、すでにゴシケヴィチは箱(函)館に帰任している模様である。
 その後、この宿寺はイタリア使節の宿所に当てられたことがある。
【イタリア使節アルミニヨン】 イタリア使節の滞在は、慶応二年(一八六六)六月、品川へ来航していたイタリア全権アルミニヨンにたいし、修好通商条約締結の承諾とともに、江戸滞在中は大中寺を宿館にあてるよう通告した。
 イタリア使節の日本滞在については、アルミニヨンの『伊国使節アルミニヨン幕末日本記』に詳述されており、わびしかった江戸宿寺の滞在を次のように記している。
 
  板塀が僧の住居との間を仕切り、清潔で広々としているが、窪地なので外が見えない。建物は二階建で一〇〇人くらい住めそうである。寺院であったらしい彫刻や祭壇の跡もみえる。隣の寺とこの家の庭との境には一〇フィートもある塀が新たにめぐらされ、夜間の侵入者を防ごうとする親切がうかがわれる。北側の庭は一部開放され、木があり池があって、池の中には魚が泳いでいる。しかし、囲いの中では五、六歩しか歩かれず、どうしても牢獄にいるような感じがした。われわれは、ここに二、三時間いただけで、一八五九年から一八六二年〔安政六年~文久二年〕にかけての外国公使らの境遇がいかに不愉快なものであったかを、十分に想像できた。彼らは外国との交通をしゃ断され国民の排外思想のために毎日重大な危険にさらされていたのである。
 
 条約の調印は、慶応二年七月十六日(一八八六年八月二十五日)に行なわれ、アルミニヨンの一行はまもなく大中寺を去った。