(1) 東京府の開設

425 ~ 426 / 1465ページ
【遷都論】 慶応四年(一八六八)一月三日、討幕派による徳川の勢力を排除するための挑発工作も手伝って、鳥羽伏見の戦いが勃発し、薩長軍を主力とする新政府軍が勝利した。「朝敵」慶喜追討の勅令がだされ、明治維新への歴史の局面は大きく転換していった。いわゆる戊辰の内乱の戦火が広がるなかで、あちこちで起こった農民騒動をはじめ民衆の封建支配への反抗を伴いながら、天皇を中心とする中央集権的な統一国家の建設が方向づけられた。「百事御一新」が叫ばれ、新体制確立のため、政治の中心地、すなわち、首府をどこにおくかが重要な政治課題となり、ここにいくつかの遷都論が登場した。財政的基盤の弱かった新政府の配慮を背景に、慶応四年一月、参与大久保利通の有名な「浪花遷都論」が建白されたのをはじめ、つづいて旧幕臣前島密によって「江戸遷都」が打ちだされ、さらに大木民平と江藤新平の二人によって、東西二京併立という構想が岩倉具視に出された。
 こうして慶応四年七月十七日、天皇東幸の詔書が布告され「江戸ヲ改メテ東京トセン」との宣言によって、ここに京都の西京にたいして、東方に一新都が設定されたのである。
 ところで、彰義隊討伐後の慶応四年五月十九日、府下一円を手中におさめた新政府は江戸鎮台府を置き、南北町奉行所をそのまま南北市政裁判所とし、寺社奉行所を寺社裁判所に、勘定奉行所を民政裁判所にそれぞれ改め、府内を統治した。町奉行所の与力・同心の多くはそのまま鎮台府付として新政府に仕えることとなった。鎮台府は、江戸が東京と改称されるとともに廃され、あらたに鎮将府が設けられ、駿河以東十三カ国を管轄することとなった。ここに市政裁判所が廃され東京府が設置され、公卿烏丸光徳が最初の府知事となった。庁舎は幸橋御門内旧郡山藩邸(藩主柳沢保申)に置かれ、九月二日に開庁した。鎮将府は関東・東北の旧幕勢力を鎮圧する方針によって、従来の寺社裁判所を廃止、ついで民政裁判所を会計局に改めた。この年の十二月までに掲げられた高輪車町の高札場の新政布告は七種に及び、あわただしい時代の変転を告げていた。
 はじめ東京府の管轄範囲は、ほぼ江戸時代の朱引内と称されていた地域であり、周囲の旧代官支配の地域は、旧代官三人に旧支配地を管理させ、武蔵知県事と称した。明治元年(一八六八)十一月五日には、この武蔵知県事の支配地の中から百数十カ村を移管し、府の管轄地域を定めた。