明治四年(一八七一)七月、廃藩置県が断行され、全国を三府七二県に分かつに至り、新政府の中央集権化への基盤が完成し、こうした改革の実をあげるために地方政治の当面の課題は、錯雑した制度を画一化することであり、一般民衆にたいする統制を強めることであった。
明治四年四月に布告された「戸籍法」は、「脱籍無産の徒」の取締りを意図したものであったが、大区小区制成立のきっかけとなった。明治二年十一月には武家地・寺社地も東京府の管轄内に入れられたが、この戸籍法施行当時の武家地の荒廃ぶりは、はなはだしく、同四年六月九日とくに衰微荒廃のはげしい武家地の多い芝・高輪・麻布・三田・赤坂・四谷・市ケ谷・牛込・小石川などの山の手方面を郷村地にくり入れた。この結果、従来の「朱引内」は縮小され、五〇区が四四区となり、府下の朱引外には六大区二五小区を設置した。港区地域については、次のとおりである。
【朱引外の港区地域】 第一大区(中二三小区)
東ハ芝金杉橋ヨリ南高輪迄、芝二本榎ヨリ白金台町十町目、西ハ白金村今里村下中渋谷村新堀川筋同一ノ橋、北ハ赤羽橋迄
第二大区(中二五小区)
東ハ溜池ヨリ西久保飯倉通、南ハ赤羽橋古川通、西ハ渋谷宮益町青山通、北ハ和歌山藩邸喰違迄
これは朱引外だけであるが、行政区画として大区と小区の二段とした最初で、各大区に仮出張所がおかれ、従前の各年寄は戸長・副戸長となった。同年八月にはこの「朱引外」六大区は廃止され、「朱引内」四四区に続いて四五区から六九区までとした。
ついで十一月に至って、さらに府下全体にわたり本格的な区画の改正が実施され、朱引内外を一として六大区に分け、各大区内を一六の小区に分け、小区総数を九七とした。これは市中取締り、すなわち、警備体制上の区画たる府兵大区と行政区画を一致させるため従来の区画線を変更したものであった。しかし、四年の末から五年にかけて東多摩の編入をはじめ、小菅県・品川県・浦和県・長浜県・神奈川県などから管轄地の移管をうけ、東京府の管轄区域はおよそ現在の二三区の範囲に拡張されたので、とりあえず新編入の地を一九小区に分け、合計一一三の小区とした。
【一一大区一〇三小区】 やがて、明治六年から翌七年にかけて再編成が行なわれ、第一大区から第六大区までを「朱引内」、第七大区から第一一大区までを「朱引外」とし、合計一一大区一〇三小区に区分した。この区画は明治十一年の郡区町村編制法の施行まで四年間続いたのである。