(1) 三田救育所の設置

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 武士階級の没落による武家地の荒廃に象徴されるように、東京市中の衰微はおびただしく、乞食、浮浪化した民衆が激増したのは当然であった。社会的基盤が弱体であった新政府にとって、失業士族の救済、つまり士族授産は切実な問題であり、治安対策のうえからもこれら窮民に対する救済策は急を要する課題であった。このとき寛政三年老中松平定信による江戸の町費節約を契機に発足した社会救済事業の機関であった町会所の七分積金制度が利用されたのである。
【三田救育所】 明治二年四月六日、三田一丁目阿州・土州・内藤家跡に救育所が建てられ、「鰥寡(かんか)孤独ノモノハ勿論、其他厄介ニシテ活計相立チ難ク、飢渇ニ及ブ可キ族ハ御撫育成シ下サレ候」(己巳布令)という方針のもとに窮民への救助が開始された。収容者への食糧支給には町会所囲い籾が利用された。救育所では収容者の職業訓練教育に力を入れ、男女とも一〇歳以上七〇歳までの者を対象に賃労働をさせており、仕事の種類は織物・製糸・紙すき・開墾・鼻緒製造などであった(『府治類纂』)。同三年十月の記録では、三田救育所に収容されていた一九八八人のうち男女一六五人が自立できるようになったとある(『東京府日誌』)。
【高輪救育所】 この救育所は同二年九月十四日には麹町、同二十七日高輪、さらに十月には深川三十三間堂の広場に増設された。同年十月七日高輪救育所では七五九人を収容している。高輪救育所での労働による公定賃金は、
 
  銀二匁五分 農業草取土片付ごみ溜堀浚、其他一人一日雇賃銀
  銀八分五厘 荒地開墾一坪に付
  銀二十八匁 道普請土取場所一丁内外迄は取土一坪敷ならし賃銀
                             (『東京府日誌』より。)
 
というものであった。府の社会事業施設の第一歩としてのこの救育所は、同三年から四年にかけて、深川西平野町、麹町元紀州藩邸、下谷二丁目旧藤堂藩邸などに工作場を設置、婦女子の貧困者に機織などの授産事業を提供した。
【東京会議所】 しかし、これらの事業を推進するためには費用が莫大でその維持が困難となり、抜本的対策が必要であった。町会所七分積金を市民の管理に任せ「共有金」として各種の事業に活用しようとする構想が府知事由利公正らにより打ち出され、明治五年五月二十九日、町会所は廃止、大蔵省からの内諭により「営繕会議所」が新設され、同年九月、市民の福利施設の発展に大きく寄与することを目的に、「東京府」に類似した性格と機能を帯びた「東京会議所」の成立となった。
 明治五年(一八七二)十月、三田救育所は廃止、高輪救育所は福島嘉兵衛に委託され、労働力のある者以外の老幼廃疾者は各区において収容することとなった。
 こうした動きはいくつもみられた。たとえば、明治二年十月二十五日には、十五・十六番組の貧民救助のため会社設立願が芝浜松町二丁目町年寄ら一一一人連名で出されている。一五〇〇人を想定し、その規約の内容は生活の自立をとおして、新しい体制に順応させようというもので、民心教化の色彩が強く打ち出されていたのである。