(1) 桑茶政策

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 上野の彰義隊が鎮圧されると、武家地は旗本屋敷を含め、荒廃の一途をたどった。新政府は、慶応四年(一八六八)七月旧将軍家に対して、郭外の土地邸宅の売買・取り毀しを禁止し、旗本をはじめ旧家臣団から町人の町屋敷に至るまで、徳川家から受領あるいは借用したりした土地を接収することを決定、翌八月、諸大名・旗本の郭内屋敷は、土地家屋をあわせて接収した。このとき郭内の範囲をひろげ、東の方は、以後両国大川端筋、南は芝口新橋川筋を郭内に準ずるものとした。
 ところで、東京府の武家地面積は、明治三年(一八七〇)五月の調査によれば、朱引内七六四万四〇〇〇余坪、朱引外四〇〇万八〇〇〇余坪、合計一一六九万二〇〇〇余坪で、全市街の約六〇パーセントを占めていたといわれる(『武家地処理問題』)。
 明治二年(一八六九)八月の史料では、府下でおよそ二〇〇万坪余にのぼる土地が上地され、それは武家地の約二八パーセント近くにあたり(『区制沿革』)、さびれはてた邸内には草が生い茂り、建物も荒れるにまかせるといった荒涼とした風景に満ちていた。
【桑茶政策】 開墾掛兼務の重責を負った東京府知事大木喬任は、明治二年八月十五日、太政官に桑茶政策の建言を提出、二十五日には幸橋内旧南部藩邸に物産局が置かれ、局中に撫育・開墾の二科が設けられたのである。
 桑・茶植付けの希望者には、身分にかかわらず希望により入札のうえ、地所を払い下げるか、または土地を貸すこと、これらの桑茶を植えさせた土地の分は四三カ月目より税の対象とすること、などの規則が作成された。これらの土地は極めて低廉に払い下げられたが、芝では一〇〇〇坪につき二〇円、白金では一〇円の割合で払い下げられている例もみえる(『明治五年法令類纂』)。
 この政策が推進された結果、武家地のうち、とくに山の手方面は農園と化したものが多く、明治六年(一八七三)三月の調査によると、府下の大名・旗本の諸邸宅開墾地は一一〇万六七〇七坪で、そのうち桑茶開墾地は一〇二万五二〇七坪に及び、上地された三〇〇万坪余の三分の一にあたる土地が武家地から農園に化していったのである。このうち港区域の開墾状況は次のとおりである。
 
 坪数  場所  町名
一二一、〇六一坪

 麻布

 我善坊町、本村町、竹谷町、新堀町、東町、新筓町、広尾町、
 富士見町(旧名白金御殿)、新竜土町
 四〇、六〇四坪 白金 台町、猿町、三光町、下三光町
一五九、三五九坪 青山 南町、北町
 二五、〇〇〇坪  下渋谷村
  五、四一三坪 芝 二本榎町、栄町
  九、〇〇〇坪  下豊沢村
  一、五〇〇坪  三田村
  五、〇〇〇坪  今里村
一〇七、五三九坪

 千駄ヶ谷

 西信濃町、甲賀町、大番町、仲町、千駄ヶ谷村、千駄ヶ谷一丁目、同二丁目、
 同三丁目

                                  (『武家地処理問題』)
 
 場末の至る所に桑の実や茶の白い花をみるにいたったこの政策も、輸出そのものがまだ軌道にのらなかったこと、桑茶の七~八割近くが枯死したことも加わり、さらに首都東京を発展させようとする政府の政策による武家地の跡地利用が増大するにつれ、その矛盾は激化し、失敗に終わった。
 とりわけ、武家地の占める率の大きかった港区地域では、その衰微も甚だしかったと思われるが、
 
  芝烏森に、千坪で池があって、庭園附の広大な大屋敷が売物だと知らして来たので、矢野(竜渓)家で弐百五十円に入札したら、参百円で他手に渡ってしまったという話があった。大きな旗本の屋敷が、長屋門だけあって、母家がなく、莫然として、僅かに桑茶が植ってゐるといふ風なのが、幾十軒幾百軒となく、東京市中にあって、悉く売物となったとやら……。(下略)
                                 (篠田鉱造『明治百話』)
 
というような街況が、変貌する武家地を象徴していたのである。