(3) 慶応義塾と攻玉塾

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【慶応義塾】 政府による学校教育制度がなお確立されるに至らなかったこの時代に、新しい思想にもとづいて教育を行ない、その後の長い伝統を築いた私塾のなかにあって、本区地域でとくに注目されるのは、慶応義塾や攻玉塾などであろう。
 慶応義塾は、安政五年(一八五八)鉄砲洲に福沢諭吉が開いたものであるが、本区内の芝新銭座へ移転したのは文久元年(一八六一)で、その翌々年一たん鉄砲洲へもどったが、慶応四年(一八六八)再び新銭座に移った。上野戦争の最中にも、この慶応義塾が芝新銭座にあって講義を続けたというエピソードも伝えられている。
 明治二年八月には、汐留奥平藩邸内に分塾である汐留出張所を設け、その藩邸が上地されるに及び、古川端(三田豊岡町)の竜源寺を分塾とし、また、新銭座付近の江川太郎左衛門の長屋を外塾としたり、増上寺山内広度院を分塾としていたこともあったが、同四年三田二丁目に移って今日に及んでいる。三田の地は大名屋敷の跡で広大であり、しかも品川湾を眼下に見おろす景勝の高台を占め、町屋と一応隔絶した教育環境の上から絶好の条件をそなえた土地であった。
 明治二年(一八六九)八月の「慶応義塾新議」には、入社料は三両、月謝二分、盆と暮の納付金千匹とし、最初の三カ月は西洋の基礎知識を覚え、理学初歩、文法書を読み、次の六カ月に地理書または窮理書一冊を、さらに次の六カ月で歴史書一冊を素読するという修学の模様が書かれている。同六年には医学所を設け、翌七年一月には幼稚舎を設けている。同七年の元日、慶応義塾社中会同の際、福沢のおこなった演説は、同年一月『学問のすゝめ』五編として出版され、当時の義塾の学問の独立と教育の主義とを説いて、封建的遺制からの脱皮を唱えるその特色を端的にあらわしていた。この年六月、三田演説会の発会式があり、翌八年構内に演説館が開館した。
【攻玉塾】 攻玉塾は、文久三年(一八六三)近藤真琴が四谷鳥羽藩邸内に家塾を開いたのに始まり、明治二年新銭座町に移っている。明治四年、慶応義塾の三田移転にともない、その跡地を譲り受けたもので、航海、測量術、和漢、蘭英数を教授していた。同八年、商船黌と称し、十四年攻玉舎と改め、同二十六年(一八九三)には攻玉社尋常中学校となった。震災で目黒大崎の現在地へ移転したが、その間海軍軍人の中心となる人材を多く養成し、日清戦争の出征海軍将校の三八パーセント、日露戦争でも二〇パーセント余をこの学校出身者で占めたといわれる。