(5) 教育令以後

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【教育令】 教育令が出たのは明治十二年(一八七九)九月で、小学校に関する規定がその大部分を占めていた。明治十四年六月、従来の学区が廃されて、新たに行政上の郡区に一致させられたが、その前年十二月、麻布区会は麻布区公立学校維持仮条例を可決している。教育令の主旨にもとづき、夜間学校や実業面の教育振興策が行なわれるようになったが、明治十二年飯倉小学校内に庶民夜学校が設けられ、同十六年ごろ閉校している。その後、深仁夜学校として再び夜学校が設けられ、同二十四年まで存続した。また、同十四年八月から翌年三月まで、麻布小学校に庶民夜学校が東京府によって実業補習教育を目的として設けられた。
 明治十五年四月、文部省は小学校教則綱領を定め、小学校の課程を、初等(三年)、中等(三年)、高等(三年)としたが、麻布区では、麻布、南山、飯倉の公立三校に各初等を置き、南山、飯倉の二校の中等へ行き、さらに麻布校にある高等の課程を修めた。