(1) 武家地の産業的転換と明治初年の物産

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【武家地の産業的転換】 いうまでもなく、江戸の市街地の人口構造は、町地の過密地帯と、武家地の過疎地帯の組み合わせからなりたっていた。明治五年(一八七二)ごろの港区地域の景観については、『東京府志料』によりうかがうことができる。
 市の中心部に接し、東海道の幹線が通じていた第二大区、主として芝の地はこの過疎地としての武家地を商業的転換によって発展させていったが、武家地と百姓地であった麻布・赤坂方面では寂寥たる状況が多くみられ、産業的開発は農耕あるいは畜産的方向をとり、甲州街道沿いの町々に、いくらかの商業的立地がみうけられる程度であった。赤坂田町から氷川町一帯なども「藩邸士地ノ如キハ一新後或ハ田圃トナル所アッテ景況寂寥タリ」という状態であり、白金付近も、藩邸士地のごとき広い敷地をかかえ、運輸の便がないままに、土地を他に転用する方法もなく、畑地のまま放置していた状況がわかる。さらに、青山あたりは一時は桑茶地であったのが、青山南北四、五丁目に商業的萌芽とともに市街の新開がはじまった様子がわかる。
 明治七年(一八七四)刊行の服部誠一の『東京新繁昌記』は、新市街の有様をのべているなかで、
 
  愛宕下坊の如きは、大小の侯邸並列して、曽て一商戸を見ざるもの、今皆繁華の新街となり、芝切通しより、新し橋通りに至るまで、百貨の肆店櫛比軒を列ね、侯邸の跡を見ず、新街中愛宕下坊を以て渠魁となす。
 
と、愛宕下坊を港区地域での武家地の産業的転換の典型としてとりあげている。
 明治初年の港区地域における生産品を明治五年の『東京府志料』でみると、その数は一〇〇余品に及ぶが、その中心は手工業生産による雑貨手芸品であった。いま年間生産額一〇〇〇円以上の生産品とその地域的分布をみると、表3のような状況であるが、洋服・帽子は別として、当時一万五〇〇〇円以上の生産高を示したものに、ねり油・股引・腹掛・足袋・櫛・簪・筓・和傘・傘骨などがあり、五〇〇〇円以上では、ろうそく・団扇・元結・水引・家具・木工品・錦絵・絵双紙などがあった。
 その主要生産地域は主として四つの地域にわけられる。第一は、芝口一丁目から浜松町四丁目に至る間、すなわち、芝口橋を出て金杉橋に至る間の東海道にそった細長い町地で、神明町・宇田川町・柴井町がその代表的な産業地帯といえる。第二は、飯倉界隈であり、第三は、三田同朋町・三田台町から芝田町・芝車町・二本榎一丁目にかけての芝南部の臨海地域であり、第四は赤坂見附より青山に至る地域で、赤坂田町五・六丁目、赤坂新町一丁目、赤坂一ツ木町などである。商業資本と密接な関係にあった江戸時代の手工業は必然的に道路沿いの町家に立地したが、これらの地域もいずれも港区地域の重要な街道に立地し、その両側は商業的にもかなりの賑わいを呈していたところで、その分布と重なりあって、手工業が存在していたのである。
 
【明治五年ごろの生産品の分布】

表3 明治五年ごろの港区地域における生産品の分布 (生産高一〇〇〇円以上)

   町     名    生  産  品  名
(第二大区)
二小区 今入町
〃   桜田伏見町
〃   桜田本郷町
〃   芝口一丁目
〃   芝口二丁目
〃   芝口三丁目
〃   源助町
〃   露月町
三小区 愛宕下町四丁目
〃   柴井町
〃   宇田川町
〃   宇田川横町
〃   神明町
〃   芝浜松町二丁目
五小区 芝三島町
〃   芝中門前三丁目
六小区 飯倉町一丁目
〃   飯倉町二丁目
十小区 芝田町九丁目
十一小区 芝二本榎町一丁目
十二小区 麻布山元町
(第三大区)
七小区 赤坂裏二丁目
八小区 赤坂田町五丁目
〃   赤坂新町五丁目
(第七大区)
渋谷上広尾町
(第八大区)
一小区 青山南町二丁目
〃   麻布笄町
〃   青山北町二丁目
    青山北町三丁目
原宿村

団扇
蠟燭
股引足袋・筆
木櫛
腹掛・股引足袋・筆・蠟燭・団扇・刷毛

革馬具類・下駄・鼈甲・簪・刷毛
団扇・サーベル
西洋服
蠟燭・鼈甲櫛
西洋服・筆
煉油
煉油・鼈甲銀象牙櫛笄類
煙草入類
西洋服・錦絵・絵双紙
西洋服
金箔
西洋服・煉油
漁網
足袋
博多織帯地

籐下駄表
金箔
籐下駄表

漉返紙





傘轆轤

(『東京府志料』より作成)


【主要生産品】 つぎに、その主要生産品を紹介してみよう。