和傘

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 江戸時代青山では、小禄の御家人の間に手内職として和傘の生産が行なわれていた。幕府瓦解のあと、旧幕臣の生きざまは「駿河に従随する者七分、若かず剣を沽(す)て傘工に従事する者三分」(『新撰東京名所図会』)といわれたように、青山での和傘の生産高は明治初年において一頭地を抜いていたが、ほかに赤坂・麻布・芝の一部でも行なわれていた。青山では、北町三丁目が四万六〇〇〇本と抜群の生産高を示し、麻布では、麻布筓町が年産一万三〇〇〇本を製造している。これらの地域は、その後の市街地の発展につれ、自然廃業あるいは郊外地への移転をみるようになるが、明治三十四年ごろの青山には、まだ仲買仲間が一〇軒ほど残っていたという(田村栄太郎『日本工業文化史』)。洋傘、すなわちコウモリ傘は明治初年、一時赤坂田町五丁目で、その後、愛宕下町・田村町・琴平町・三田四国町・芝田町などでも製造されたが、あまり発展することなく終わってしまった。