和洋家具の生産は三田・飯倉を中心にはやくから盛んであったが、机・椅子・タンス・本箱・針箱・文箱・盆・指物に至る日常生活必需品は小規模な家内工業組織によって製造され、飯倉五・六丁目・芝栄町・三田同朋町・三田功運町・芝田町一~七丁目などが製造の中心地で、ほかに麻布坂下町・芝露月町など広範囲に特色ある産業が散在していた。
のちに港区工業の一特色たる地位を築いた洋家具の製造は、芝中門町二丁目・芝栄町・飯倉町五丁目・三田同朋町・芝田町七丁目・赤坂裏町一丁目などにまず起こったが、はじめは机・椅子・テーブルの三品目にかぎられていた。
ところで、『東京府志料』による一万円以上の「雑貨手芸品」の東京での主要生産地のうち、裁縫製品の生産額がもっとも高いのが、芝宇田川町で、ついで日本橋横山町・芝愛宕下町の順となっている。宇田川町や愛宕下町のこれら裁縫製品は西洋服で、文明開化の影響をうけた生活様式の変化のもとで、庶民の要求にこたえる「洋品雑貨」として登場してきた商品であった(石塚裕道『東京の社会経済史』)。
こうした文明開化の影響は、新分野を手工業にひらき、明治八年六月編集の『東京府誌』は人力車・馬車の需要が急増して活気づいた芝方面の生産高を記録しており、露月町や琴平町におこなわれた写真絵、烏森町の洋灯、愛宕下町の香水吹、西久保巴町のランプ、琴平町の石鹼などにみられる舶来品模倣が、伝統的なものとの混在といった当時の手工業を特色づけていたのである。