(3) 近代工業の生成

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【工業育成策と工部省の設置】 明治三年閏十月、「工学開明」「百工褒勧(ほうかん)」をめざして、「上から」の工業育成の指導的役割を担うべき中枢管理機構として工部省が皇城内に設立された。本庁はまもなく木挽町五丁目に置かれ、省中に工学・勧工・鉱山・鉄道・土木・灯台・造船・電信・製鉄・製作の十寮と測量司とがあり、そのうち勧工寮は同四年十一月二十二日、赤坂葵町の伊万里県出張邸跡に開設された。同省は鉄道・鉱山・工作の三部門を所管として発足したが、同五年二月二十六日の大火で本庁が類焼して、本庁も赤坂葵町の勧工寮内に移転した。六年十一月には勧工寮は廃止されて製作寮と合併したが、七年六月には葵町一番地に工部省本庁舎が新築された。
【赤羽工作分局】 その製作寮は芝赤羽にあったのであるが、六年十二月、旧勧工寮へ移転し、十年一月の官制改革により工学寮と合併し、工作局となった。工部省の工作部門は、赤羽・品川・深川の三工作分局と、兵庫・長崎の二造船所より構成され、赤羽工作分局は同四年十二月、芝赤羽町の久留米藩邸跡に設けられた最初の機械製作工場であった。同四年の「製鉄寮」設立の計画をきっかけに成立したものである。
 この工場は当初は、赤羽製作所と呼ばれ、のち赤羽工作分局と改称、各種の機械やその付属品を製造したのである。
 つぎに本区内に生まれた工業をみてみよう。