マッチ工業

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【マッチ工業】 (マッチは燐寸または摺付木と書いた)
 明治八年四月、フランス官立燐寸工場で製法を修得して帰国した旧金沢藩士の清水誠が、三田四国町の吉井友実邸内に仮工場を起こして黄燐マッチを製造したのが、東京におけるマッチ工業の創始地となった。
 この仮工場は、翌九年本所柳原に移転し、新燧社工場となったが、それは士族授産の一方法として、区内にも芝琴平町に燧明社、芝浜松町二丁目に取明社の設立をみた。すなわち、そこでは貧窮家庭の女子・幼年者の手内職として生産の最底辺をささえていたのである。明治十五年の職工数は、前者が女工十五人、後者が男工十一人、女工十四人といずれも小規模のものであった。