明治十五年芝金杉新浜町一番地に、二代目田中久重が設立したもので、富国強兵策を背景に、海軍の兵器や通信機の受注でその基盤を確立した。初代の田中久重は旧久留米藩の細工師の子に生まれ、佐賀藩精錬方で小銃・汽缶を製造の経験をもち、明治初年京都で洋式機械の製作にあたっていたが、明治五年その養子大吉(二代目久重)が東京に出て麻布で機械の製作を開始、電信寮の命をうけて電信機の製作にあたった。同七年には、電信寮の電気製機所に招かれている。その後、同工場は工部省の命令で各種の機械を製作したが、同十一年同省に買収移管された。この当時の施設は小規模で工員数三〇名程度であったという。
二代目久重が設立した田中工場は、十年代後半に急速に発展し、明治二十年ごろには工員数も六八〇名となり、同二十三年一〇五馬力の機関を設備し、年間に電機汽機その他六〇八点を製造するなど、当時民間における機械製造業者が少なかっただけに、大いに繁盛したといわれる。しかし、海軍の指名注文という保護が競争入札という形で崩れていくと経営も苦しくなり、同二十六年十一月債権者の三井銀行に譲渡され、以後名称を芝浦製作所と命名、同銀行抵当係であった慶応義塾出身の藤山雷太を当所の主任として再建するに至ったのである。
芝浦製作所(明治35年当時)