(4) 勧農政策と三田育種場

475 ~ 475 / 1465ページ
 明治六年十一月に、大久保利通の指導で内務省の殖産勧農担当の機構として勧業寮(のち勧農寮)が設置された。府内ではこの内務省の所管のもとに農牧業振興策として、内藤新宿試験場・駒場農学校・三田育種場などが設けられた。
【三田育種場】 三田育種場は、明治十年九月三十日、第二大区八小区の三田一丁目慶応義塾前に設置されたもので、農産会市を開設、農園を開き、牛・馬・羊・豚を飼育して種つけなどを行なった。また、競馬場を置き、馬匹改良を目的に競馬会が挙行された。これは九段の招魂社競馬についで催されたもので、同十三年五月には木村荘平が興農競馬会社を設立し、三田育種場内で競馬会を催しており、同十五年十二月三日には明治天皇の観覧もあった。同年民営になる。市(いち)は四月十五日と十月十五日を大市とし、毎月一日と二十日を小市として開かれた。
 この育種場内の苗園では、外国種の苗樹を栽培させた。十一年には二〇九本、同十五年には二六万三一八八本に増加しており(『東京府統計書』)、これは民間に移管されたのちも、三田四国町に苗種商として残っていったのである。
 民間にあっては、青山南町六丁目に松沢市之助経営の学稼園があり、のち同町六丁目および高樹町に苗木場を設け、月刊雑誌『日本之園芸』を発行した。また、明治二十年代にはいり、麻布区竹谷町で植木商大塚安五郎が仙華園を開いた。さらに本村町には津田仙の有名な学農園があり、『農業雑誌』発行と農具種苗の製造販売を行なっていた。