この開業式は、九日に行なわれる予定のところ、雨で延引になり、十二日に行なわれたもので、明治天皇は当日九時に皇居を出発、十時に新橋駅を出発して十一時に横浜着、直ちに開通式を行ない、十二時横浜発一時新橋につき式典に臨んだ。その盛典の模様は、「鉄道館内には近衛兵一大隊を整列し、奉銃の式あって、音楽を奏す。館内無数の旗章を飜し、紅白百千の提燈を掲げ、烟火を揚げ、花木各種の装飾をなして、時ならざる春を発するに似たり」と報道されている(東京日日新聞)。当時、一部の海外渡航者などを除き一般の人が実物運転を見たのは新橋開通式前後であったので、海の蒸汽船に対し岡蒸気と呼んだり、蒸汽車、小火輪車等の漢字をあてているように、文明の利器に対する驚きは今日でもいくつかのエピソードを伝えている。
新橋停車場(明治44年ころ)
【鉄道敷設への反対】 しかし、この鉄道敷設への反対の声もかなり強いものがあった。用地の買収については当然被買収者の反感がさまざまな立場から生まれた。宿場に依存する人々は生活の危機感から反対をとなえ、品川駅もこのため宿場内につくれず、高輪に設置したのである。芝の海岸の箇所は買収工作がうまくゆかず、もっとも難航した。もとより庶民の側の圧力は力としては線路工事に対する妨害行為となってあらわれたものの、それ自体は微力ではあった。それにくらべ政策的見地から守旧主義的色彩の強かった兵部省のような政府官衙の反対は現実的な力をもっていた。
測量は芝の汐留からとりかかったが、浜御殿の辺は海軍所の拡張予定地であり、品川の八ツ山は陸軍の用地だからといって、測量そのものに妨害の態度を示した。兵部省の建物は品川八ツ山下にあったが、その対立の根底には通商上の利益を図るよりも国防施設を重視する路線の相違があった。このため大隈重信ら推進派は海岸埋立てによる高輪・品川間の路線変更を余儀なくされ、建築技師長モレルの下で副長を努めたジョン・ダイアック技師の指導のもと、品川・高輪付近の埋立ては薩摩藩御用達平野弥十郎らが担当した(石井満『日本鉄道創設史話』)。ダイアックの助手をつとめ、いま汐留駅構内に記念碑のある日本の鉄道の「ゼロ哩零鎖」の第一杭を打った武者満歌の談として、八ツ山の辺は陸軍の旗が立っていて一歩も入れず、干潮を見計り、測量器械を担いで、海の中へ入って仕事をした、との苦労話が残っている(門田勲『国鉄物語』)。
こうした事情もあり、品川―新橋間の工事が遅れ、品川―横浜間がさきに工事が完了、五年五月三日には、同月七日から品川―横浜間にはじめて汽車を走らせるといった「汽車仮開業」の布告が行なわれた。当日は、三条実美以下政府の高官が乗車、両地間を往復し、翌日より仮開業として一般に利用させた。はじめは、一日二回で、横浜発は午前八時と午後四時、品川発は午前九時と午後五時で、上中下の三等に分かれ、所要時間は三五分、上が片道一円五〇銭、中が一円、下が五〇銭であった。品川駅はその意味で、わが国最初の鉄道開通の記念すべき駅であったといえよう。また、明治天皇は新橋駅開通式にさきだって、明治五年七月十二日、野毛山下駅より品川駅まで乗車しており、これが始めての鉄道乗車の体験でもあった。