【人力車の発明】 日本人の発明による庶民の手で創設された交通手段に人力車があった。この人力車の発明者についてはさまざまの異説があるが、一般に明治二年ごろに和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の三人による発明とされている(藤沢衛彦『明治風俗史』)。最初は、大八車式の車に四本の柱を立て、それに布を張りまわした簡単なもので、繁華街の中心である日本橋に姿をみせたが、次第に便利な交通機関として人気を博し、明治六年ごろには府下で総数三万四〇〇〇を数えるに至ったという(『新聞雑誌』一三〇号)。雨おおい(母衣)は、芝浜松町の中年寄内田勘左衛門の考案という説もあり、芝区内でも多い時には五〇〇〇台にも達したが、明治三十六年新橋品川の電車開通のころから次第に衰微し、花街の一部に姿をとどめるようになっていった。青山善光寺内には左のような「人力車発明記念碑」が空襲で多少破損しているが、残されている。
人力車発明記念碑
人力車は明治二、三年の交、和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助三氏の発明する所にして、世用となすところ頗る大なり、同三十三年発明の功を賞して、賞勲局より各三百円を賜わる、有志者相謀り、碑を建て之を不朽に伝ふ