乗合馬車は、明治三年横浜―東京間に開通しているが、市内乗合馬車事業の始まりは、明治五年ころからである。石井研堂『明治事物起源』によれば、同二年四月にすでに芝の住民により開業されたとの記載がある。
〔年表〕二年四月の条に、芝口一丁目西側家主久右衛門外八人馬車渡世之事願免許せらる。内二階づき馬車といふあり、危きを以て戌(七年)九月御停止とあり、又三年人力車仕法書中に「馬車とも違い、急迫の儀も無之候間云々」とあるを見れば、二年ごろには漸く製造開業の萌を生じたるならん
【乗合馬車の広告文】 同六年七月、新橋駅近くの芝口二丁目玉の井前、同汐留と神田三河町三カ所に発着所を設けた乗合馬車が営業され、その時の広告文は次のとおりである。
今度お上様へ願済の上で市中廻転馬車を新橋芝口二丁目玉の井、同汐留、神田三河町の三ケ所へ相開き清潔と便利を旨とし何方へなりとも速達になるやう致します。
但汐留の義は蒸汽車よりお上りのお客様お待受に相設け何方へなりとも急速に往復する。
一里 一疋引 金二分
一里 二疋引 金壱両
(『芝区誌』所収)
同七年八月、新橋駅より浅草雷門に至る二階建て乗合馬車が開業された。浅草雷門の千里軒の経営で、銀座煉瓦街のうえを洋風二階馬車のオムニバスが走ったのである。客三〇人を乗せ、芝口と浅草間を一時間、毎朝六時より午後八時迄一日六回往復、一人前料金十銭というものであった(『東京日々新聞』明治七年八月六日)。
市内の乗合馬車は、同九年には約一七〇両に達し貸馬車も現われた。十年ごろには、新橋――浅草間、浅草――山ノ宿間、新宿――品川間を、毎日午前六時から午後六時まで、市内の目貫通りに「テトー・テトー・テトー」のラッパを吹きながら走るようになり、沿道家屋に被害を与えたり、乗心地もよくはなかったが、当時の唯一の大衆輸送機関でもあって、落語家の円太郎が高座でまねをして、のちに「円太郎馬車」の愛称で市民に親しまれたのである。はじめ新橋――浅草間は全線三区で、一区一銭の割の料金であった。
【軌道乗合馬車】 これをさらに一歩すすめたのが、馬車鉄道であった。東京馬車鉄道敷設の計画は、鹿児島県士族種田誠一らが五代友厚の援助を受け、明治十三年二月市街馬車鉄道――市街の目貫きの通りにレールをしいて、そこを馬車が走る軌道馬車――を計画、同年十一月認可となり、東京馬車鉄道株式会社を設立したことに始まる。同十五年六月、英国より馬車を輸入し、新橋―日本橋間が竣工開業し、十月一日、のちの市電の中心路線となった新橋・上野・浅草・浅草橋・本石町・日本橋・新橋を結ぶ約一六キロの循環線を完成。東京馬車鉄は増大する交通需要を背景に、開業の年に全線で三〇~四〇両の馬車を運転し、毎日三〇〇余円の収入をあげ、同二十五年ごろには年三割八分の高配当を行なったほどであり、輸送機関の独占的優位にたち、一般乗合馬車、とくに人力車は壊滅的打撃をうけた。