【牛鍋屋の流行】 いわゆる明治開化期は、よかれあしかれ、「日本の」近代文化成立に一つの重要な役割を果たしたのであり、市民の生活と思想、すなわち市民文化をそこに形成した。旧物破壊・旧習一洗が唱えられ、風俗面での西欧化の現象はとくにすさまじかった。
封建時代には、概して不浄として嫌った獣肉を嗜好するようになり、「牛鍋屋の流行」が開化のシンボルのようにみられたのも、その一例であった。明治四年刊行の仮名垣魯文の『[牛屋雑談]安愚楽鍋』は、当時の牛鍋店の大繁昌ぶりをおもしろく描写しているが、この牛肉屋として芝露月町にできた「中川屋」は東京における草分けといわれる。中川屋についで、新橋付近では二葉町の角徳、芝口二丁目の今朝などが繁昌した牛肉店として、その名を残している。
【中川屋 私設屠場】 この中川屋開業のきっかけは、慶応三年五月、外国人相手の牛肉納入を業としていた横浜元町の中川屋嘉兵衛が、府下荏原郡白金村名主堀越藤吉の畑の一部にはじめて屠牛場を設けたことによる。当初は、牛鍋店を開くための貸家をさがすのに皆に断わられ、悪戦苦闘したというエピソードも伝わっている(石井研堂改訂増補『明治事物起源』)。この私設屠場も住民から苦情が起こり、まもなく本芝に引き移った。これにつづいて、明治元年木挽町の宮川清吉が本芝二丁目に屠牛業を起こしたといわれるが、詳しいことは不明である。この区内二屠場は、明治二年九月築地に官営の民部省牛馬商社ができたため一時つぶれた。
私設屠場の動きをみると、同三年七月には堀越藤吉・河合万五郎の二人が白金に再び屠場を設け、また、万屋万平が芝七曲(西応寺町)に、翌四年十月には野口義孝が三田小山町三番地に、それぞれ屠場を設けたが、いずれもすぐ廃場となっている。この間、官営の牛馬商社は、四年三月に麻布本村町に移転している。
四年八月の屠牛取締に関する布告により、区内には一時屠場がなくなったが、六年ごろには白金村の旧屠場が使用されていた。
明治十三年に至り、これまでの諸獣屠場一カ所限りの方針が撤廃されてから、屠場の乱立競争時代がはじまった。十四年十一月には、白金今里村共有屠場が開設、同十六年三月には浅草千束村にあった木村荘平の食用牛の屠殺場を芝浜に移し、豊盛社共同屠場と称して開業し、同年度には二七六六頭の牛と九八七頭の豚を屠殺している。当時、牛肉百斤の平均相場は十円十八銭七厘、豚百斤の平均相場は五円四十六銭であった。この屠場は、明治二十年まで存続した(『芝区誌』)。