(5) 新聞・雑誌の刊行と本屋

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【読売新聞】 現在、虎ノ門には読売新聞創刊の記念碑が建てられているが、洋学者の子安峻(たかし)らが読売新聞を創刊したのは、明治七年十一月二日で、その場所は、当時虎門外琴平町一番の旧武家長屋であった。この読売新聞は、漢字には読み仮名をルビでつけるなど、わが国初の本格的な大衆啓発紙ともいえるもので、全国紙に発展する基となった。
 明治十年の『東京府統計表』によると、当時本区内で刊行された新聞雑誌は、麻布本村町の学農社(津田仙)の『農業雑誌』、三田二丁目の慶応義塾出版社(朝吹英二)の『民間雑誌』がみえる。
【日新真事誌】 また、明治七年刊行の『東京独案内』掲載の「新聞紙活版場」のなかに本区地域に属するものとして、琴平町一番地の「新聞紙屋」・「活版日然社」、愛宕下町三丁目の「博聞社」、芝山内広渡院の「日新誌会社活版所」の名がみえる。『日新真事誌』は明治五年三月、イギリス人ジョン・アール・ブラックによって発行された邦字新聞で、同七年に民撰議院設立建白を掲げたことで有名である。
【尚古堂岡田屋】 文明開化期の港区を語る場合、文化の伝播者としての役割を果たしたものの一つに、本屋があったことを看過することはできないだろう。尚古堂岡田屋嘉七や甘泉堂和泉屋市兵衛らをはじめ、いわゆる絵双紙屋などが芝神明前の通りに店をかまえていたが、福沢諭吉の『学問のすゝめ』を発行した尚古堂が象徴するように、江戸期以来の伝統をもつ芝増上寺周辺の本屋の存在は、文明開化期の新しい情報の普及に大きな貢献をなしたといえる。