【東京市区改正条例】 明治二十一年八月十六日公布の勅令第六二号「東京市区改正条例」は、首都東京の市街地改造計画を制度化したものであった。十三年ごろから、東京を経済都市として発展させるため、道路改造とともに築港問題が提起されたが、内務卿山県有朋―府知事芳川顕正の指導のもとに具体化された改造計画は、田口卯吉や福沢諭吉らが構想した築港と市街地の改造により東京を商業(貿易)都市化するという方向を切り捨て、政治都市としてもっぱら「帝都」の外観整備におかれることになった。
市区改正委員会により答申された基本計画は(二十二年五月二十日告示)、一五区を対象に道路・河川・橋梁・外濠整理・鉄道・公園・市場・屠場・火葬場・墓地など広範に及んでいるが、財源難など計画自体が包括的すぎて進展は予定どおりにはいかなかった。そこには、住民の住居や上・下水道などの生活環境に直結するものの都市施設の建設よりも、軍事的機能と産業発展の基盤となる道路・橋梁・河川の補修を優先する「住民不在」の都市計画の姿勢があったことも否定できない。
ともあれ、こうした市区改正事業によって、新橋・上野両駅間に高架線による鉄道線路の建造、芝新網町、湊町の金杉川沿岸に芝魚鳥市場、芝区白金村今里玉縄の内に白金獣畜市場と屠場の新設が行なわれ、青山墓地も拡張整備されたのである。ここで本区に直結する築港計画について具体的な動きをみてみよう。
【築港問題】 明治十二年八月、田口卯吉は、『東京経済雑誌』に「船渠開設の議」を始めとし、東京港を横浜港にかわる国際貿易港に設定することを構想したが、そのなかに品川沖の埋立て事業と船渠(ドック)の開設が主張されていた(『鼎軒田口卯吉全集』)。第七代府知事の松田道之の提案により、十三年十一月、庁内に「市区取調委員局」が設置され、築港問題が市街地改造と結びつけられて提起された。松田は、東京湾の開さくを主張し、隅田川口より品川沖台場付近に築港を想定し、品海築港計画の中心的役割を果たした(『東京中央市区画定之問題』)。第八代府知事に就任した芳川顕正も、「品海築港之儀ニ付上申」(十七年十一月十四日)を出し、品海築港案を政府に提出、許可を求めた。この築港計画の具体化は内務省土木局雇用オランダ人技師ムルドルに依頼し、築港の中心を隅田河口におくか、品川の海港におくかで議論のあった築港案の選択を決定することになった。ムルドルは、二案を提出し、「内海ヲ塡築シテ大埠頭ヲ設クル」案=深港策を推し、市区取調委員局も賛成したが、横浜側の反対運動や莫大な建設費用がかかる点など機運が熟さず、実現をみるに至らなかった。こうして、芝区が東京港本港としての位置を決定するのは、明治三十三年になってからである(「都市紀要25」『市区改正と品海築港計画』)。
【水道改良事業】 市区改正事業の一環としての旧来の木管を近代的鉄管に替える水道改良事業は、明治十九年の夏に大流行したコレラによる死者が東京府管内で九八七九人にも達するという大事件に促されて着手以来八年、三十一年十二月にはほぼ完成し、神田・日本橋の一部に給水を開始した。水道改良の機運を促したのは、明治七年、オランダの技師ファン・ドールンが土木寮の依頼で調査を行ない、改良水道設計書を提出したことである。
水道改良設計は、二十三年認可され、翌二十四年十一月水道改良事務所が開設、二十五年十二月水道改良工事に着手したが、浄水工場の設置は、立地条件のうえから、南豊島郡の淀橋に決め、低地給水場として本郷と芝とに設置することになった。芝給水工場は当初は麻布に設ける予定であったが、二十四年変更されたもので、敷地の一部は曹洞宗宗務局所属地であったが、用地買収が難航し、二十九年八月竣工した。淀橋と芝給水工場の間は一一〇〇ミリメートルの鉄管で結ばれ、三十二年一月から各戸給水工事に着手、次第にその給水区域を拡大していったのである。
なお、この改良水道が完成したとき不用になった麻布水道は、明治十二年九月に天皇から下賜された二一〇〇円余を基金に、麻布区民有志の首唱で開設された記念すべき施設であった。水路は、旧青山水道筋、四谷大木戸より分水して、青山北町一丁目、同南町一丁目、赤坂桧町、麻布三河台町、同市兵衛町二丁目に至り、三線に分かれ本線は仲町・飯倉六丁目・三丁目・五丁目・赤羽橋まで通っていた。