【愛宕下の洋家具業】 港区の特殊産業として特異な発展をとげたのが芝の愛宕下の洋家具業であった。明治五年ごろの産業をあらわす『東京府志料』によって、芝や赤坂の一部で和家具とともに机・椅子・テーブルの製造が行なわれていたことはすでに述べたが、いわゆる文明開化による生活様式の変化に対応したものであった。外人の家具修理や家具の古物商が明治の中ごろには芝にも数軒店をかまえた。明治二十一年ごろ、愛宕下町の丹波屋、烏森町の前田屋、田村町の中野屋など洋家具製造の胎動を示す洋家具店があった。伝統的な職人にとって洋家具の中古は格好な手本であったのである。
しかし、芝の洋家具業の発展の経路については、木挽町の杉田屋という東京家具界の元祖から起こってきたとの説も有力である。すなわち、明治の中ごろ、杉田屋で修業してきた人々が芝で独立して家具業を起こしたというもので、その中心地となったのが芝新橋および田村町であった。寺尾穣二の『思い出の家具の町――芝のひと、芝のみせ』はその間の事情を次のようにつぶさに語っている。
明治の中ごろには五、六軒の洋家具屋が、大正の始めには十数軒が、赤レンガの通りの両側に軒をつらねるようになって、兼房町一帯に家具屋が密集した。とくに上物を作って有名だったのは、小沢慎太郎商店、寺尾僴商店、小林福三商店などであった。これらは芝家具を代表する業者で、宮内省の家具はもっぱらかれらの手で納められた。こういう人たちは、いづれも杉田屋出身で、そこで修業して、のちに芝に店をもった人ばかりである。
芝の洋家具業が急速に発展していった背景に当時の洋風建築の異常な発達があったことは見のがせない。日清・日露の二度の戦争を通じて発展した資本主義経済の目覚ましい進展を象徴する「三菱ガ原」に代表される近代的会社街の建設と不可分の関係をもったのである。官庁や大企業が所在する麹町・日本橋・京橋方面に近接している地理的条件も立地条件の一つであった。
【お店と下職】 これらの時代的要請を内側からささえていたのが、お店(たな)と下職(したじょく)という特殊な生産組織であった。寺尾穣二の前掲書は、次のように語っている。
むかしから芝の家具企業は、お店と下職からなっていた。お店は資本主であり、販売機関である。下職は労働者であり、生産者である。しかし、両者の間は仕事を通じて精神的な紐でつながれていた。お店はたいてい数軒から十数軒の下職をもっていた。下職は各仕事別にあり、同じ素地(きじ)屋もそれぞれ特色があって、下職の親方は数人~二、三十人の職人や弟子、徒弟を抱えていた。
まさしく芝木工業が集団的に発達した基盤には、家具店がその生産費低下の必要性から採用した下職制度がそれをささえていたといえよう。明治四十年刊の『東京案内』中に東京の特産としてあげられている新名物のなかに洋家具一一店があり、五店が本区で占められている。とくに日露戦争後、横浜において営業していた同業者が東京に吸収され、洋風建築ブームとあいまって最盛期をむかえた。