日陰町はむかしから古着店が多く、とくに明治以後洋服の古着店が軒をつらね、柳原と一対をなす東京の著名な古着街を形成した。源助町と愛宕下町二丁目との間の、いわゆる日陰町通りがその中心で、その他種々の商店が集まり「此地に来れば物として求め得ざるものなし。実に重宝なる処」(『新撰東京名所図会』)と称されるほどであった。徳富芦花は『みみずのたはごと』のなかで、
そもそもこの洋服は明治三十六年日陰町で七円で買った白っぽい綿セルの背広で北海道にもこれで行き、富士で死にかけた時も此で上り、パレスチナから露西亜へもこれで行ってトルストイの家でも持参の袷と此洋服を更代に着たものだ……。
と書いている。この古着屋はその後、洋服の仕立技術が普及するにしたがい需要者が減り、やがて既製洋服商へ転化していった。
明治三十年代の新橋を代表した有名店は、芝口の井ノ口屋(婚礼式具)・梅村屋(西洋青物)・玉木屋(煮豆)・萩ノ餅(菓子)・蟹屋(菓子)・橋善(天ぷら)・今朝(牛鶏肉)、露月町の渋井徳兵衛(調胃丸本舗)・大塚靴商店・寿屋(軍剣)、烏森町の玉置(洋家具)・和泉屋(西洋青物)、源助町の堺屋利助(洋服)・高野屋(洋服)・前田(帽子)・梅田屋(古着)・松藤(洋品)、宇田川町の中田屋(洋品)、愛宕下町の大国屋(洋家具)・尾張屋(洋家具)・寺尾(洋家具)、新幸町の大黒ずし、桜田本郷町の鈴木(鞄)・堀口(洋酒食品)・伊豆滝(洋酒食品)、桜田伏見町の内田(靴)、桜田太左衛門町の水野(牛鶏肉)、新桜田町の丸木(写真)などであるが、それらは概して小規模商業であった。