赤坂花街

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【赤坂主義】 赤坂田町の待合茶屋街として著名だったのが溜池に面する一丁目から四丁目で、烏森花街とともに本区の代表的花街であった。
 溜池は維新後、明治五年には渡し舟ができたが、年々埋め立てられ、明治二十一年には埋立地を溜池町とした。このことが待合茶屋街として発展する契機にもなったのである。

溜池市街(明治39年ころ)

 明治十六年の『東京妓情』では、東京二五花街のうちで最下位に近い格付けをされている程度であったが、官衙に近い場所で、山の手の住宅地にも接近し、柳橋など高級な場所では遊べない下級官員や御用商人に手がるな遊び場として重宝がられた。新興の土地だけに自由な営業政策による、安い待合茶屋を売り物にして新橋などに対抗し、安売りの代名詞が「赤坂主義」と称されたほどであった(『都新聞』明治二十六年十二月十二日)。この土地が発展への足場を築いたのは日清戦争の勝利で、赤坂に御用商人や付近の兵営の軍人を集めることになり、さらに日露戦争は赤坂を確固たる地位にのしあげたのである。ちなみに、芸妓屋の数をみると、明治三十五年三九軒であったのが、同三十九年には六五軒に増加している『東京市統計書』)。
 赤坂名物の料理屋として名高かったのが江戸時代以来の伝統をもつ八百屋勘右衛門の「八百勘」であり、三河屋も有名であった。また、芸妓置き屋の春本と林家の対立競争は、女太閤とあだ名された春本の女将秀吉が万竜を雇って世の評判をとれば、林家の女将お鉄はおりんで対抗する、といった勢力争いの激化となり、こうした要素も加わって赤坂は新橋・柳橋二花街に比肩する名声をかちとるのである。
 赤坂の明治末頃の状況は、「広くして、芸妓(しゃ)の沢山いるのは赤坂の春本と林家とで、一軒の家に二十人からいるゆえ、御神燈の周囲(まわり)を稼(かせ)ぎ人の名が透間(すきま)もなく取巻いているので、こんなに大勢いる家(うち)は、新橋にも何処にもない」(明治三十七年正月『文芸界』増刊号「東京風俗」)とあるように、新橋烏森と違い、一軒で多くの芸妓を多数抱えているところに特色があったようである。
 こうした花街のにぎわいも一歩外に出ると、「夜になると赤坂で、賑かな処と言ふべきは、たゞ田町、一ツ木、新町、先づ此位で、あとは極く淋しい処ばかりです」と国木田独歩が『夜の赤坂』(明治三十五年『文芸界』九月号)で書いているように淋しい街であった。