(1) 市街電車とストライキ

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【馬車鉄】 市内唯一の交通機関であった馬車鉄道は、馬の放尿と放糞とによる不衛生な点が悩みとなっていたが、近代都市の要求を満たすべく電化の試みが、軌道企業熱をともなって行なわれた。明治二十年、二つのグループが電車敷設を出願している。
 東京馬車鉄道は、明治二十六年十一月に動力の変更を決議、電気鉄道敷設許可の願書を内務省に提出し、また同年、立川勇次郎らは、芝愛宕下より品川に至る線を出願している。同二十八年六月、馬車鉄以外の四グループは、合同して東京電気鉄道株式会社(のちの市街鉄道)を創立した。明治三十三年十月、馬車鉄は複線架設式による電車変更の認可を得たのを機会に社名を東京電車鉄道株式会社と改め、翌年七月二十五日、新橋―品川間の試運転を完了し、八月二十二日より、その営業を開始した。これが市内電車のはじめである。ついで、同社は十一月、新橋―上野間、翌三十七年三月、上野―浅草間を開通した。営業時間は午前五時半より翌午前一時半まで、料金は、上野―品川間三銭均一であった。
 他方、三十五年四月創立の東京市街鉄道株式会社は、三十六年九月、数寄屋橋―神田橋間、翌十月、新橋―半蔵門間、十一月、神田―両国間・半蔵門―新宿間と順次、路線を拡張した。また、川崎電気鉄道株式会社を改称した電気鉄道は、明治三十七年十二月外濠線のうち土橋―御茶ノ水間を開通、翌三十八年春、さらに土橋―虎ノ門間を開通した。
【三電競争時代と市有論】 こうして市内を三つの企業の電車が走る、いわゆる三電競争時代を迎え、新橋駅を起点として、それぞれ区内外に路線を延長していったが、市民の足である交通機関を私設会社の手で推進していくことは、市民生活にとって不得策として共通運賃制の実施の要望などが出され、市有論が高まっていった。市街鉄道問題をめぐる市有か民有かの論争は、市民の利用が多くなるにつれ活発化し、明治三十二年六月の東京市参事会では、わずか一票の差で民有論者側の勝利となった。日露戦争終結直後の明治三十九年三月、三社は共通運賃制の実施という名目で、経営悪化の打開策として運賃値上げを図ったが、日露戦争下の増税と物価騰貴に苦しめられていた市民は、激しい反対運動を起こし、同年九月五日、一万人以上の市民が参加した日比谷公園での値上げ反対市民大会では、大会終了後、群集が街頭に出て警官隊と衝突、電車を焼き打ちするなど騒擾事件が起こった。この事件を契機として、明治三十九年九月十一日、三社合併が実現し、新たに東京鉄道株式会社が設立されたが、これが刺激となって電車市有論が台頭し、ついに同四十四年八月一日、東京市電気局が創設された。ここに市営化が実現することになったが、東京市(市長尾崎行雄)が東京鉄道会社を買収するにさいしては、一部資本家の利益を偏重する姿勢が、市民の不満を買った。芝区・麻布区でも、区会が反対決議を行なっており、いわば、これらの批判を黙殺して強行されたものであった。当日、尾崎市長の訓示を受けた電気局の局員は約六〇〇〇名、市営化直後の軌道延長一九二キロメートル、一日平均乗客数五一万人。市営化当日には芝御成門―麻布台町間(二・一キロ)が開業、八月三日には、青山七丁目―渋谷間(一・〇キロ)が完成している。
【市電最初のストライキ】 この電気局開局後わずか五カ月目の明治四十四年十二月三十一日、旧東京鉄道の解散手当分配をめぐり、市電最初のストライキが打たれた。三十日の本所出張所で二、三時間にわたっての電車運転中止の罷業をきっかけに、翌三十一日には、三田を中心に、青山・新宿・浅草の各出張所に飛火し、大晦日の夜半まで市内の交通はほとんど麻痺状態になった。石川啄木は、一月二日の日記に、「元日の市中はまるで電車の影を見なかったという事である。明治四十五年がストライキの中に来たということは私の興味を惹かないわけには行かなかった。何だかそれが、保守主義者の好かない事のどん/\日本に起って来る前兆のようで……云々」と記している。大逆事件による徹底的弾圧で、社会主義運動はいわゆる「冬の時代」に入っており、六〇〇〇余人の市電労働者によるストライキは、片山潜ら社会主義者をはじめ多数が処罰されたが、民衆のうっ積したエネルギーが、重苦しい秩序の壁を払いのけるかのような争議でもあった。
【京浜電気鉄道株式会社】 私設鉄道で本区に直接関係があったのは、京浜電気鉄道株式会社であった。明治三十一年三月に、芝区高輪南町に創設され、品川町北品川より横浜市神奈川に至る電車の運転を開始。これは東京の郊外電車の最初であった。