【烏森駅の誕生】 市内の鉄道の電化が進み、明治四十二年十二月十六日、品川―田端―池袋―赤羽、品川―烏森―田端―上野間が開通した。
この新橋上野間の連絡として電車専用の高架線の開通により、ルネッサンス式三階建ての烏森駅が誕生した。『東京日日新聞』はこのときの「山手線試乗記」を次のように載せている。
朝の六時から運転し初めたから、早速新設の烏森停車場(現在の新橋駅)から上野迄初乗りを試みた。今度新に出来た停車場は烏森・浜松町・田町・代々木・上野の五ケ所で、烏森一ケ所は例の高架鉄道の一部分になってゐるから、出札口は下で有るが、プラットホームは右手の階段を登った上で、総アスファルトで敷き詰めた四畳半の巾で上りと下りが別々になって、三十間と四十間の長さである。而して屋根はあるが囲ひが無い吹きさらしだから、寒い事夥しい。定員腰掛五十二人の外に、立てば三十八人、締て九十八で、十五分毎に発車する。
この高架鉄道の開設に先立ち、予定線路の麹町区山下町、同内幸町等より、芝区二葉町・烏森町・芝口三丁目・源助町を経て新銭座に達するコースに対し、明治三十二年九月、市街地の中心にあることから、鉄道の延長に反対する住民運動が起こっている。芝区民の有志は、機関車よりの「煤烟噴出の為め、往々火災の害を免がれず、該線路新橋―上野間及び其附近の家屋多く木造にして、此等危険亦従て多きに付き」(『日本新聞』明治三十二年九月十四日)、その路線の変更および地下鉄道あるいは電車の採用を、東京府と逓信大臣に請願した。
【田町駅と浜松町駅】 田町駅・浜松町駅は明治四十二年十二月新橋―品川駅間の中間駅として新設され、その両駅乗降客の緩和の役目を果たした。なお、品川駅は、当初は現地よりもやや南方、八ツ山の下の海浜近くにあったが、明治二十九年、ほぼ現在のところに駅舎を移転新築したもので、山手線の開通によってその分岐点となった。