(六) 山の手の邸宅地

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【邸宅地の景観】 麻布や青山の旧武家屋敷地は、高燥で静かな景観を呈しており、眺望もよかったところから、明治後期ごろには、華族・高級官吏などの住む邸宅地としての性格を色濃くしていた。
 島崎藤村が飯倉付近について語った文章のなかに、
 
  あの坂の頂上から狸穴、飯倉片町、六本木へかけての三河台あたりは、お邸町で至極物静かな上品な通りでした、大正元年までは電車も通っていず、真昼間と雖も森閑としていたものです。四ツ辻から、あの通りを見渡しても、左側に鍋島・松平・都築・有賀・相良などの諸邸があり、右側には稲葉邸・徳川邸(頼倫侯)・星邸など、何れも宏壮な邸宅で、堂々たる高塀と門とが並んでいました(島崎藤村「飯倉付近」――『大東京繁昌記』山の手篇所収、昭和三年。)。
 
と、お邸町の情景が描かれている。また、飯倉三丁目で生まれた水上滝太郎は思い出話のなかで、
 
  私の家を終りとして丘の上は屋敷門の薄暗い底には何物か潜んで居るやうに、牢獄(ひとや)のやうな大きな構造(かまへ)の家が厳(いか)めしい塀を連ねて、何処の家でも広く取囲んだ庭には欝蒼と茂った樹木の間に春は梅、桜、桃、李が咲揃って、風の吹く日には何処の家の梢から散るのかも見も知らぬ種々(いろ/\)の花が庭に散り敷いた (略) 寂然(ひっそり)した屋敷々々から、花の頃月の宵などには申合せたやうに単調な懶(ものう)い、古びた琴の音が洩れ聞こえて淋しい涙を誘うのであった(水上滝太郎「山の手の子」――『水上滝太郎全集』)
 
と、緑や空間のある静閑な山の手地帯の面影を偲(しの)んでいる。
 
 明治三十九年当時の東京市内の大地主についての調査によれば、本区内に関しては、華族・官僚の各上位に、麻布の旧棚倉藩主阿部正功子爵の四万一〇〇〇坪、芝の松方正義の三万一〇〇〇坪などがみえ、芝・麻布・赤坂の三区が所有地の集中した区としてあげられている(石塚裕道『東京の社会経済史』)。
 当時、こうした大規模な宅地所有について、一万坪以上の宅地を所有する大地主一〇八人の有する二六七万余坪は、東京の全市域の約四分の一にわたると、『平民新聞』(明治四十年一月十五日)は指摘し、きびしく糾弾しているが、明治十七年の華族令は、旧薩長土肥の雄藩出身者を中心に「皇室―藩屏」として特権的な身分制度を確立させ、新華族(政府高級官僚)を含め五〇〇人余の華族を生み、その結果、「華族世襲財産法」などによる有利な条件での宅地購入を可能にしていったのである。この宅地所有の過程は、明治二年六月、新政府が諸藩主四二七人を華族と改称させ、東京居住を義務づけたことにさかのぼる。旧幕臣の空屋になっていた邸宅も「賜邸」された。明治七年六月刊行の『東京一覧』により港区地域の邸宅をみてみよう。
 
【港区地域の邸宅一覧】

明治七年刊行『東京一覧』による皇族・華族邸宅(芝・麻布・赤坂関係)

(皇族方邸宅)
芝大門通り浜手元紀州邸 有栖川熾仁
(三職参議邸宅)
参議兼海軍卿勝安芳邸 赤坂氷川町
参議兼工部卿伊藤博文邸 高輪南町
(華族住所姓名)
  第二大区
小二ノ区佐久間町一丁目一番地 従五位 稲葉久通
同    同     三番地 従五位 一柳末徳
同    同  二丁目一番地 従五位 土方雄志
同    同     二番地 従五位 田村崇顕
同    同     十番地 正五位 加藤明実
同    同    十一番地 従五位 一柳頼明
同    同    十四番地 従五位 毛利高謙
同       田村町一番地 従五位 山名義路
同        同 五番地 従五位 植村家壷
同      兼房町十七番地 従五位 秋月種段
同    日影町一丁目一番地 従五位 中川久成
同     同 二丁目一番地 従五位 相良頼基
同    愛宕町一丁目一番地 従五位 平野長詳
同    愛宕町一丁目二番地 従五位 池田徳澄
同     同    四番地 従五位 保科正益
同     同 二丁目三番地 従五位 本堂観久
同     同 三丁目一番地 従五位 井上正巳
同       烏森町五番地 従五位 分部光謙
小三ノ区神明町二十一番地 従五位 森 忠儀
同 芝浜松町一丁目十五番地 従五位 関 長克
同 同    二丁目八番地 従五位 大久保忠良
小四ノ区葺手町二十二番地 従五位 土岐頼知
同 西久保明舟町二十二番地 従五位 池田政礼
同     琴平町二番地 従四位 真田幸民
同     同  一番地 従五位 本多忠明
嫡子
同     同    同 従五位 本多忠禎
同     同  三番地 従五位 木下俊愿
同 芝愛宕町一丁目二番地 従五位 毛利元敏
同 同   二丁目三番地 従五位 片桐貞篤
同 同      一番地 従五位 森俊滋
従五位米津政敏父隠居
同 同   三丁目二番地 従五位 米津政明
従五位毛利元功父隠居
同 同      三番地 従五位 毛利元蕃
小六ノ区芝栄町七番地 従五位 鍋島直彬
小六ノ区神谷町十九番地 従五位 仙石政固
同 麻布市兵衛町一丁目十一番地 従五位 南部栄信
同   同    九番地 従四位 大村純熙
同   同    二番地 従五位 溝口直正
同  麻布仲ノ町十一番地 従五位 大久保教義
小七ノ区飯倉狸穴町一番地 従五位 秋田映季
同 芝森元町一丁目三番地 従四位 戸沢正実
嫡子
同 同 従五位 戸沢正定
同 同 飯倉片町二十二番地 従四位 松平頼英
同    同  二十三番地 従五位 有馬氏弘
同    同   四番地 従五位 木下利恭
同 麻布永坂町三十八番地 従四位 島津忠寛
同 同    四十九番地 従五位 京極寿吉
同人父隠居
同 同 従五位 京極高典
同 麻布東島居坂町二十二番地 従五位 五島盛徳
同 同      六番地 従五位 本庄道美
小八ノ区芝松本町四丁目 従四位 大給恒
同 芝田町三丁目二番地 従五位 水野忠弘
同 芝通新町十九番地 従五位 久留島通請
同   芝新堀七番地 従五位 織田信及
同    同 四番地 従五位 遠藤胤城
同   芝新堀二番地 従五位 丹羽氏中
小九ノ区三田四丁目二十六番地 従五位 奥平昌邁
同 三田小山町二十六番地 従五位 黒田長徳
小十ノ区芝田町八丁目五番地 従四位 柳津保申
同 芝田町七丁目二番地 従五位 牧野忠泰
従五位木下俊愿養曽祖父実父隠居
同 同 六丁目十七番地 従五位 木下俊敦
小十一ノ区芝高輪南町二十六番地 従三位 毛利元徳
同    同 三十六番地 従五位 毛利元功
同 芝伊皿子町二十三番地 従五位 毛利元純
同 高輪北町三十六番地 従四位 松平直致
直致隠居
    同    同居 従四位 松平慶憲
小十二ノ区麻布鳥居坂町四番地 従五位 上杉亨
同 同 桜田町一番地 従五位 堀 之美
同 同 三十二番地 従五位 内藤政憲
同 同 網代町四十四番地 従五位 青木重義
同 同 西町二十二番地 従五位 山崎治敏
同 同 六本木町一番地 従五位 丹羽長裕
従五位水野勝寛養父隠居
同 同 従五位 水野勝知
同    同 十四番地 従五位 内田正学
従五位小笠原貞規養父隠居
同    宮村町七番地 従五位 小笠原貞正
    第三大区
小七ノ区赤坂一ッ木町一番地 従五位 大岡忠敬
同 同    丹後町一番地 従五位 竹腰正旧
小八ノ区赤坂福吉町二番地 従三位 徳川家達
同 同 新町五丁目三十七番地 従五位 青山忠誠
小八ノ区中ノ町十六番地 従五位 遠山友〓
同 同 氷川町二十七番地 従五位 菊亭修季
同 同    四十三番地 従五位 松平忠恕
黒田長知養父隠居
同 同   福吉町一番地 従四位 黒田長溥

 
 華族の持地は、特別に賃貸料がやすく、芝三田の徳川家、麻布永坂の島津家の持地は一坪二銭五厘、麻布霞町の阿部家の土地は坪二銭であった。明治十八、九年ごろから、これら富豪や華族の邸宅では、饗宴を庭園で催すことが多くなり、日露戦争後ますます流行したという。
 こうした一部の邸宅とは無縁に、交通機関の発達と人口の集中による市内の地価の騰貴は著しく、明治二十年代に入ると高輪・麻布方面もかなり騰貴し、一般庶民はおのずと借家人とならざるを得なかった。日清戦争が起こる直前の青山・麻布・芝などには、各所に新築の貸家が現われ、芝の育種場跡には、五〇〇戸以上も建てられて、「千軒共稼ぎの新開市街」(『東京日日』)に変ずるであろうといわれた(『東京百年史』第三巻)。