大正期の東京で忘れることのできないことの一つは、東京の中央駅ともいうべき東京駅が大正三年(一九一四)十二月に完成したことである。明治初年以来、現在汐留駅といわれている新橋駅が交通の中心となっていたが、この東京駅の完成により、拠点は区内の新橋駅から東京駅に移行することとなった。
もっとも明治四十二年(一九〇九)末でも日暮里・池袋・新宿・品川・烏森駅間だけが複線となっているだけで、高架鉄道といっても上野――呉服橋駅間には電車が通っておらず、日暮里――上野間すら単線という有様だった。それが東京駅の完成で、それまでの烏森駅を新橋駅と改称し、東京駅と連絡、第一次大戦後の大正八年(一九一九)には一応東京―新橋―品川―桜木町と省線(国電)が連絡し電化された。なお、従来の新橋駅は汐留駅と改称され、新たに貨物を専門に扱うことになった。
その後、関東大震災後の復興めざましい東京は、不況下に喘ぎながらも郊外の発展と人口の激増をきたした。そのためもっとも不便とされていた上野――神田駅間が大正十四年(一九二五)十一月に開通し、新橋から上野へと区民の足はずいぶん便利になった。
こうして区民は品川、田町、浜松町、新橋の省線(国電)駅をもったが、芝地区の住民たちが主として通勤などに使うほかは、赤坂地区や麻布地区の人々はもっぱら市電とバスに頼るよりほかはなかった。