(1) 米価急騰で米騒動に発展

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【第一次大戦起こる】 大正三年六月、欧州大戦勃発の因をなしたサラエボ事件が起きて、七月大戦がはじまると、日本も国際情勢の変化に伴い安閑としてはいられぬ立場にたたされていった。
 大正の新しい時代を記念して、上野公園と池の端に三年三月から開かれた大正博覧会は、急遽(きょ)七月末日をもって中止となり、八月二十三日には、日本がドイツに宣戦を布告するといった事態になった。
 一方、欧州大戦勃発後も食糧はそう不足ではなかったのに、大正六年には戦争により食糧不足となった欧州諸国へ、米の輸出が増加したこと、春になっても冷気が続き苗の生育がおくれたことなどに乗じて、先物買いの悪徳商人による米の買占めが行なわれ米価が急に上昇をした。これに対し、農商務省は六年八月三十日、物価調整令を公布したが、物価の上昇はつづいた。
【米騒動の端緒 鎮圧に軍隊が出動】 こうして不安な毎日をすごしているうち、大正六年(一九一七)十一月ロシアに十月革命がおこり、翌七年四月には日英陸戦隊のウラジオストック上陸に発展、国内の物価も急速にあがっていった。とくに不作による米の不足が米価をつりあげ、政府も七年五月、外米輸入商を指定して外米の輸入に努めたが、七月に入って米価は暴騰して沈静せず、ついに七月二十三日富山県魚津町の漁民の妻女たちが、数十人集まり、米価高騰防止のため、米の県外への船積み中止を荷主に要求しようとして、海岸へ集合、大騒ぎになったのがきっかけとなり、八月三日には同県の西水橋町でも漁民の女房たちによる米騒動が広がり、全国に波及するに至った。この結果、警察ばかりか、ついには軍隊も鎮圧に出動するほどの大騒動になった。
 八月七日の東京の白米小売値段は、一升五〇銭台という前年の二倍余となり、東京府も十二日から朝鮮米の廉売を開始したが、焼石に水の状態だった。
【米騒動とその対策】 富山県下に起こった米騒動は日を追って全国に波及の形勢を示した。
 この米騒動は、第一次世界大戦時の好景気による米価の騰貴に基因することはいうまでもないが、大正五、六年度の不作がそれに拍車をかけたことは否定できない。
 政府は米騒動が次第に波及するとみるや、米価暴騰の主因を商人の買占めや売惜しみにありとして、暴利取締令や奸商退治で解決しようとしたが、これでは絶対量の不足を緩和することはできなかった。全国的には一升(〇・一五キロ)三二、三銭の米が五〇銭に達したとき、ついに米屋、地方の豪農などに対し集団で米を強請し、応じなければ強奪または放火する暴動が各地に起こった。政府はにわかに外米を輸入して放出したり、米騒動の記事を禁止したり、さらにはまた、政府発表に限り掲載を許すなど、いろいろの手を打ったが、米騒動の地域は拡大する一方となった。それのみならず、この記事差し止めは新聞界の内閣糾弾へと発展し、寺内正毅内閣は総辞職のやむなきに至った。