翌十三日になって市民の行動は暴動の形態をとるに至り、このあと十七日までの五日間、東京でも騒乱状態が続いた。
区内において多くの人々を驚かしたのは、とりわけ八月十四日の夜の烏森辺の騒動であったといえる。この情景を当時の新聞でみてみよう。
十四日における状況 午後六時頃より日比谷公園及びその附近に蝟集したる群集は解散を命ぜられしにより、帝国ホテル前通りに集まり、その数数千人に達するに至り、更に山下橋より銀座方面に出て店舗に暴行をなしたるものあり、一部の群集約七百名は芝烏森吾妻屋旅館その他芸者屋、派出所等に投石したるものあり、愛宕警察署を見舞ひたるも解散せしめられたり。(『大阪朝日新聞』号外)
それまでの区内は、比較的静穏を保っていたのに、この八月十四日の夜の日比谷公園に集まった群集の波のくずれが、どっと銀座から新橋へと押しよせたことにより爆発したものであった。
『米騒動の研究』の資料によると、この八月十四日には市民は一層エキサイトし、次のように暴れまわった。
すでに日比谷公園で群衆は互に「遣レ遣レ」と叫びあっていたが中には「大正ノ佐倉宗五郎出ロ」と叫ぶものがあり、これに答えて麻布区役所書記補蠣崎徳太郎(二九)は「然リ、大正佐倉宗五郎必要ナリト怒鳴リ、警戒ノ為メ出張セル憲兵ニ対シ、軍人ハ宜シク満州ノ野ニ行クベシト絶叫シ」、洋服裁縫業野村五郎(三六)は、「ステッキヲ振リ乍ラ大ニ遣レ遣レ之レカラ警視庁ヘ行ケ、警視庁ダ警視庁ダ」と叫び、また警戒中の警官と小競合して石を投げるもの、警官に逮捕される者が出るとその方へ押し寄せ、「犬ヲ撲レ犬ヲ殺セ」とどなるなど、喧噪を極めていた(予審終結決定書)。
そのうち、午後八時、まず「約千名ノ暴徒ハ同公園内ヲ出テ山下橋付近ニ至リ」、ここで警戒中の警官に阻止されて対峙し、「此位ノ巡査隊ヲ突破セズシテ如何スル、諸君進メ進メ」(富久紐販売鈴木民之助(註)―四八)、「諸君、神戸ヤ大阪ノ人ハ偉イ、江戸ッ子ハ意気地ガナイ、五年ヤ一〇年ノ懲役ハ覚悟ノ前ダ、大ニ遣レ遣レ」(鍛冶職加藤源太郎―二〇)、「諸者ハ今日ハ何ノ目的デ集ッタカ、僕が云ワズシテ諸君モ承知ノ筈ナレバ、之ヨリ目的地ニ向ッテ進ムベシ、戦争スルニハ弾丸ガ必要ナレバ準備スベシ」(運送店雇人平田広治―二二)などと激励するもの、「石ヲ拾ッテ腹掛ノ丼ニ納メ」るものなどが出(予審終結決定書)、警戒線を突破した。
(註)この際、鈴木民之助は、「扇ヲ掲ゲテ群衆ニ対シ、此扇子ヲ目当ニテ寄玉エ、陛下並ニ此度救済ノ為メ金ヲ寄付セル寄付者ノ万歳ヲ唱エン」といい(鈴木民之助の供述――判決書)、「扇ヲ振リ上ゲテ進メ進メト号令ヲカケ」「群衆ヲ励マ」したという(小荒井栄治巡査の供述――判決書)。
そこで群衆は二分し、「一団約三〇〇名(七〇〇名―愛媛新報、八・一九)ハ芝区烏森町ヲ経テ同区兼房町愛宕町付近ニ乱入シ」(判決書)、烏森町(註)一番地旅館吾妻屋事田島晴雄方に投石して、殆んど全部の硝子戸を毀し、兼房町巡査派出所、愛宕町巡査派出所に投石し、愛宕町派出所を押倒してさらに警視庁警察練習所及芝愛宕警察署に殺到し、練習所三階建の硝子戸全部(二二八枚、損害額一二〇円余―桜井巡査の愛宕署長宛報告)、愛宕警察署の硝子五六枚を割った。この頃が大体午後九時といわれ、愛宕町付近でこの一団は「警察官ニ阻止セラレ逆行シ、桜田本郷町付近」に向って進み、午後一一時頃、「日比谷公園方面ヨリ来レル」別の一団と合し「桜田本郷町巡査派出所ノ窓ガラス一枚ヲ割リ虎ノ門方面」に退散した(判決書)。
(註)烏森町の被害は九軒の窓硝子約三五枚、外標燈等、愛宕下町に於て七軒の硝子約五〇枚、愛宕町で一軒の窓硝子五枚、損害額約七三〇円である(桜井巡査の愛宕署長宛調査復命書――判決書)。
米騒動被起訴者の内訳
区名 | 職人 | 会社 商店 雇人 | 職工 | 商人 | 人夫 | 会社 ・ 銀行員 | 学生 | 車夫 ・ 車力 | その他 | 計 |
芝 | 3 | 4 | 7 | ― | ― | 2 | 3 | ― | 4 | 23 |
麻 布 | ― | 1 | 1 | ― | ― | ― | ― | ― | ― | 2 |
赤 坂 | 2 | 1 | 3 | 1 | ― | 2 | ― | ― | ― | 9 |
市部合計 | 65 | 52 | 38 | 18 | 14 | 10 | 9 | 7 | 24 | 237 |
石塚裕道『東京の社会経済史』より。
しかし、警察の検束がはげしく警戒も厳重をきわめたため、八月十七日以降、東京では、次第に市民も落ち着きをとりもどして、平静に復していった。
【日本電気の労働争議】 この騒動に関連して、各所に労働争議が発生し、区内でも芝の三田四国町にあった日本電気株式会社にも争議が勃発したことは注目に価する。『東京日日新聞』は、日本電気のこの争議を次のように報道した。
日本電気株式会社(芝区三田四国町)争議 会社にては「米価騰貴のため、去月(八月―引用者註)十三日以降、書記・技工・職工等七〇〇余名に対し、日割を以て、妻帯者へは一一銭、独身者へは七銭ずつの臨時補給費を支出していたるが、書記・技工等約一〇〇名は、なお之に満足せず更に給料の増額を要求せんと寄々協議し、十二日(九月―引用者註)朝に至るや、職工六〇〇余名の賛成を得て、常傭者へは五割、請負者へは三割の増給嘆願書を作成し、七〇〇余名連名の上、取締役畑工場長の手許まで提出せり。会社側にては、これに対して十五日朝をもって解決を与う可き旨回答したるも、一同十三日正午を以て解決せよと迫り、昨日(十三日―引用者註)午前中は平常の如く就業しいたるも、同時刻までに何等の回答なきより、正午の汽笛を合図に同盟罷業をなし、各工場の機械を整理し、各係長より出門証書の交付をうけ、一同整然として同会社を引揚げたり。三田署にては形勢不穏なりと認め、小山卓次・吉田清・菅原圭也・勝又武夫等四名の実行委員を本署に召喚し、午前十一時より長時間の取調べを続行したるが、夕刻に至りて一先ず帰宅を許したり。委員曰く、十四日は九月上半期の俸給日だから一同午後四時過ぎに出頭して給料を受取る筈である。十五日は第三日曜で規定の休業日故無論出勤しない。十六日朝になってから、我々委員だけがとも角も顔を出して会社側の回答を聽くことになっている」と(『東京日日』九・一四)。
ところが「会社側は昨朝(十四日―引用者註)に至り、日給三割の値上げを発表せるも、職工側にては、申訳的な日給引上げに満足する者一人もなく、又最初此の罷業に加盟せざりし一〇〇余名の社員等、書記・職工等に同情し、寄々罷業に加盟すべく密議を凝し居れり。なお職工側の委員四名は愛宕署より、一旦解放されたるも、殆んど連続的に検束をうけ居り職工等は同署の処置に憤慨し居れり」という(『東京日日』九・一五)。