(3) 労働問題

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 こうした米騒動の平穏化、米の大量放出による米価の低落で、一段落がついた十一月十一日、ドイツの降伏により第一次世界大戦はようやく終結、世界に平和のよみがえる日が到来したのであった。
 しかし、その後襲った不況は、社会不安をよび起こし、区内においても芝地域は工場街であった関係から幾つかの労働争議が起こり、それをめぐって友愛会や労働総同盟の結成など、区内を中心にした種々の動きがみられた。
 そうした労働争議に目を転じると、米騒動を一つの転機として、社会不安もたかまり、区内においても、芝区の工場街を中心に労働争議が頻発した。大正九年(一九二七)の市電争議、芝浦製作所争議、同十一年の三田土ゴム会社争議、同十二年の池貝鉄工所争議、同十三年の日本電気会社争議、同十四年の芝浦製作所争議などの大争議があった。
【友愛会】 これらの動きに先立ち区内には大正元年(一九一二)八月、鈴木文治らの手によって友愛会が三田の惟一館に設立された。友愛会は、ユニテリアン教会、社会政策学会員の支持をうけ、機関紙『友愛新報』を発行し、次第に東京市内の大工場労働者を組織化し、一年後には会員一三二六名に達した。大正三年ごろから著しく発展し、全国主要工業都市には支部をおき、当時としては唯一の全国的労働組合組織となった。その後会員も増加し、同五年には婦人部も設けられた。
【日本労働総同盟】 大正八年の大会で友愛会は、大日本労働総同盟と改称し、次第に企業別、地域別組織を変えて職業別組合連合体に再編成し、労働非商品の原則、労働組合の自由、最低賃金制の確立を主張し、そのころの労働組合運動の指導的役割を果たした。
【協調会の設立と争議の仲裁調停】 また、米騒動後の激しさを加えた労働運動に対抗するため、原敬内閣の内相床次竹二郎が労資協調を主旨とした調査研究団体を企画した。これが芝六号地にあった協調会である。このため政府は補助金として二〇〇万円を出し、資本家の寄付六八〇万円と合わせて八八〇万円を財源として、大正八年(一九一九)日本橋博文館の隣りに設立され、のち芝公園に移転した。とくに労働争議の仲裁調停や社会政策で有名であった。