(4) 米騒動と社会福祉事業

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 米騒動という大きな全国的事件は、社会福祉の面での関心をかつてみないほどに高めたといってよい。東京における社会福祉の公共的施設が種々設けられるようになっていったのは、大体において米騒動のあとであった。
 ここでは、まずはじめに米騒動以前の社会福祉施設の主たるものをあげておこう。
【日本赤十字社】 社会福祉施設としては、日本赤十字社の本社が芝公園にあったことは、周知のことで、いまさらいうまでもあるまい。西南戦争の時、報国恤兵をモットーに設立され博愛社といったのを、明治十九年(一八八六)に政府が赤十字に加盟すると、翌二十年日本赤十字社と改称、三十四年以来社団法人となった。そして、この赤十字社は大正二年(一九一三)以降、結核予防撲滅事業にも大きく貢献している。
【東京養成園】 とくに一言すべきは、渋谷の福田会とならぶ社会事業施設の孤児貧児収養事業を行なった赤坂区青山南町六丁目にあった東京養成園のことである。明治二十九年八月北川波津が東北三陸大津波による孤児貧児二六人の救養を個人で行なったのに端を発し、三十二年東京孤児院と命名、さらに四十年一月、この名に改め、収容された孤児たちにひけ目を感じさせないように図らったという。安房の北条町にも支部をおいて活躍した。
【日用品小売市場】 このほか、米騒動後の府・市当局のとった政策にもふれておこう。市も府も協力して、まず騒動直後から白米の廉売を行なったほか、「施米」も数回行なっている。しかし、八年になると社会福祉の面での施設要望が七月の市会で議決されたことに端を発して、まず、日用品小売市場と軽便な食堂が開設されていった。翌月麹町区の九段牛ケ淵公園に日用品小売市場が開設されたが、区内でも同年十一月には麻布区宮村町二六番地本光寺前に宮村町日用品小売小場、十二月には麻布区霞町一五番地市内電車交差点側に霞町日用品小売市場、赤坂区青山北町明治神宮外苑内には、二二店舗をもつ青山日用品小売市場が開場された。翌年一月には芝区赤羽町一番地市電赤羽橋交差点側にも赤羽日用品小売市場がもうけられた。販売品は白米、雑穀、野菜、茶、鮮魚、味噌など多種類にわたっていた。青山日用品小売市場は販売品の種類も他の市場にある麦や雑穀、乾物商がなく、他市場にはほとんどない牛肉商があるなどその地域性をよく表わしていた。