(5) 米騒動前後の区民生活

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 区内の住宅事情からいえば、麻布・赤坂の地区はゆったりとした住宅、のんびりした邸街(やしきまち)といった感じがあって、どこか大正時代の東京の山の手を代表するかのような感じがあったが、芝区の地域はやはり、まったく反対の下町的なせせこましい住居生活者がひしめいていたというのがおおよその姿である。
【区役所の貸家貸間紹介】 第一次世界大戦中からその後の大正八年・九年にかけて東京市内の住宅難がはげしくなり、住宅不足につけこむ不正周旋業者が、暴利をむさぼる事件が多くなった。市の社会局では、この対策として大正九年から貸家・貸間無料紹介事務を始め、後に各区役所内で紹介を行なった。このごろから市外方面の安普請の住宅建設が進み、サラリーマン層は次第に市外へ住宅を求めていった。区内でも、住居を求める人はかなり多く、各区内の貸家・貸間状況は、次のようになっていた。
 
【貸家貸間約定表】
貸家・貸間方面別成績表(自大正十年十二月
至大正十一年十一月)
区 別貸     家貸     間
紹介件数約定成立
件数
割合%紹介件数約定成立
件数
割合%

麻 布
赤 坂
一二八
七八
六二
九四
六七
七四
七三
八六
八七
五三三
二五〇
二一〇
四六七
二一〇
一八一
八八
八四
九〇

 
 すなわち、山の手的な麻布・赤坂両区の区域は、芝区に比して、住宅事情にゆとりがあり、貸家はともかく、貸間において、要求数は芝区ほどではなかった。隣の区から通勤するといったことは少なく、なるべく近くに住居を求めた。しかし、低賃銀で働く職工たちはそれも容易なことではなかった。
 一方、米騒動後の区内貧困階級の人々の生活はますます苦しくなり、その住居もまた悲惨なものもあった。
 
 当時のこうした人々の生活状況は、東京市役所の調査や、協調会発行の機関紙「社会政策時報」などに、たびたび描かれているが、区内の困窮者の一例をあげると、一人当たりの生活費は低く、「A女」の場合、「菓子小売、六九歳、月収五円位、長女五四歳との二人世帯なり、両親の代は相当資産を有せしも、夫放蕩のため家産を蕩尽し、労役に従事したる後現業につきしも、両足不自由なるを以て充分の稼ぎもなし得ず、漸く六畳の借家に男女四名の同居者を置き間代月額五円を得て二人の生計を営む。」といった生活状態であり、また「B女」の場合は、「警察小使、五七歳、月収二七円、夫(七一)、孫(一二)、孫女(一〇)の四人世帯なるが、夫は罹病入院中、一家病気絶間なく、生活困難にして、孫をボール箱製造職工となし、月収一二円を以て漸く生計を立てつつあり、支出は家賃、食費のみにて三三円内外を要すという。」といった生活困窮の状態がのっている。
 A女の場合は、女二人世帯で月一〇円、B女の場合は、四人世帯で三九円、一人当たり九円七五銭の生活費になる。こうした困窮者が棟割長屋での生活を余儀なくされ、そうした人だけがまた集まる傾向の場所を作るのも止むを得ない状況だった(大正十年東京市社会局調査)。
 まだ社会福祉の手が十分にとどいていない時代、多くは自力によってその苦境と戦い、しのいでいくより外はなかったといってよい。
 こうした生活困窮者の世帯構成人員をみると、四人世帯と五人世帯が全体の四四・五%を占めている。米騒動後、大正九年末のさがった米相場で一升三五銭であり、A女の場合女二人だから、一日一升とすれば月三斗で一〇円五〇銭になる。どんなにがんばっても一〇円ではぎりぎり生活できるかどうかである。B女の場合は、食べ盛りの子供二人に病人である。やはり四人で一日二升として月六斗で二一円になる。三九円でなら家賃を払って何とかやってゆける。それも随分苦しい生活となる。米食第一の時代でも、底辺の苦しい生活がわかろう。六畳一間の一部を四人に貸しての六人の生活が、どんな困窮生活か察せられよう。