大正も欧州大戦が終わりをつげようとした七年末からスペインで流行した風邪が持ちこまれ、東京でも爆発的な流行となり、風邪から肺炎になるものが続出、インフルエンザに対する対策が十分でなかったこともあって、死者続出という危機を迎えた。とくに同九年一・二月ごろがひどく、同年の夏ごろになってようやく下火となった。市長、府知事、警視総監による市民への警戒注意令が相ついで出されたが、市民もビールスの流行のためどうすることもできなかった。
芝区の赤羽にあった恩賜財団済生会芝病院などは、このスペイン風邪の患者の重体なもので満床になるほどだったというが、当時の統計では、流行性感冒と肺結核の死亡者が明確でなく、区内で、どれほど多数の死者を出したか正確には述べられない。毎日毎日葬式がつづき、焼場がスペイン風邪の死者の棺桶で満員になり、その日に焼けずに順延になっていったとは、土地の老人たちのよく語る話である。