(2) 区内の火災被害

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 この大震火災のため、日本橋区や本所区、浅草区、神田区は九〇%以上の焼失、京橋・深川の両区が八五%以上の焼失という火災による被害が震災を上回る被害であったのにたいし、芝区は二四%の焼失、赤坂区は七%の焼失、麻布区に至ってはほとんど焼失被害は零に近かったといってよい。下町に比べて、山の手の火災被害は軽かったが、飛びぬけて、牛込・四谷とともに麻布区の被害は軽かったといえる。
 地震の被害は、芝区において特に大きな犠牲者が出た。三田四国町の日本電気の工場が倒壊した事件である。三階建て鉄筋コンクリート、最新式といわれた大工場が、第一震で全壊した。社員職工四百余名のうち、出口近くに居合わせた僅々十数名が飛び出しただけで、残り全員がことごとく下敷きになり、無残の圧死をとげたという(『大正大震火災』)。
 このような地震による直接の被害は別として、つづいて起こった火災による被害も相当なものだった。
 芝区では地震とともに慈恵医大、桜田本郷町の鞄屋、高輪御殿宝物館から出火、燃えひろがり、一時半すぎて白金志田町から出火、さらに夜九時金杉一丁目から、十時半には琴平町と芝口一丁目辺から出火といった具合で、芝区内の四分の一を焼失する火災になった。
 赤坂では、一日の正午すぎ田町四丁目の料理店から出火、さらに飛火から榎町に延焼していった。
 麻布はまったく火災による被害がなかったといえる。
 これをみても、他区と比べてみると芝だけがかなり被害甚大であったことがわかるが、赤坂区は二二〇〇余戸の焼失戸数を出したとはいえ、山の手としては比較的被害は軽いほうで、下町の惨状からみれば、大した被害ではなかったといえよう。それでも、二二〇余戸の焼失といえば、平常なら大火とよばれるほどのものである。
 麻布区の被害はまったく無いに等しかったが、比較的軽い被害といわれた赤坂区内では、九八三三人の罹災者を出し、大倉商業、溜池大倉集古館、赤坂三会堂、榎町の米国大使館、溜池の葵館などが焼失した。三区のうちでは芝区が最も被害が大きく、焼失した主な建物は高輪御所、和蘭公使館、新橋・汐留・浜松町の各駅、慈恵医大、区役所、赤十字社、中小学一三、慈恵・東京・鉄道各病院八、愛宕神社・芝神明ほか五社、芝青松寺・麻布天徳寺ほか四六寺、芝浦製作所、東洋印刷、浜松町電気工場ほか一五、寄席映画館七、その他馬越恭平、田中平八、服部金太郎、横田千之助、松方五郎などの邸宅多数が焼失した。

救援物資の荷揚げと船で離京する被災者
(大震災直後の芝浦港)