(3) 区民の体験談

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 当時、飯倉に住んでいた鈴木正敏氏は、次のような被災の体験談を語っている。
 
  震災の記憶は飯倉片町に住んでいたのですが、ちょうど二学期の始業式を済ませて家へ帰って昼食を始めようとした時で、前の家の土蔵が崩れ、家の屋根に大きな土のかたまりが落ち、穴があいて、あたりは土煙りで何も見えなくなりました。逃げようとしても、ゆれるのが烈しくて歩くことが出来ません。隣りの小母さんが、お鉢(はち)をかかえてころげながら家へ逃げて来ましたが、もってるひつの上は砂や土で、ご飯がどこにあるのかわかりません。それから三日ぐらいは表の電車どおりで寝起きしました。火災の起こった下町のほうは大きな雲が立ち上ったような煙りで、夜になるとそれに火が映って赤く見えたのを覚えています(『あざぶ百周年記念号』)。
 
 また、村上浪六は、「震災後の感想」として、各所の惨状をのべて旧芝区内におよび、次のように言っている(『大正大震火災』)。
 
  (前略)新橋を越て芝一面の焼け跡、目に入るのは右に愛宕山の真正面に山内の森があるのみで、この芝の山内(増上寺)もまた上野の山と等しく一時の安全地帯として幾万の人間を猛火より免れしめたか知れない。品川に向ふて次第に火の手は届かずなって居るが、兎も角も全東京の要点を占めた中枢の生命地は悉く焦土となって仕舞った。
  幸ひ火災を免(のが)れた山の手の方面も、実は丸焼けにならなかったというだけの事で、地震のために潰れた家も尠(すくな)からず罹災者に押込まれて、たしかに半焼け位の損失を蒙って居るが、この際に文句は許さない。雨露の凌げるかぎり畳の敷けるかぎり苟(いやし)くも家といふものの形を存するかぎり、ドシドシ心持よく引受けて慰め助くべきである。
  山の手には華族とか富豪とかいふ平時に威張りぬいたものの、広き庭園と広き邸宅のあるのは実に幸いで、平時に威張らして貰うた威張り料の支払い時として、大(おほい)に開放し大に同情し大に救助せずばなるまい。
 
 山の手の被害の少なかったのは東京の災害として幸いであった。本区地域内でも麻布の被害のごく軽微だったこと、赤坂も二〇〇戸を越す焼失戸数を出したとはいえ、そこに多くの大邸宅のあったこと、まさに浪六のいうとおりの感がある。