(4) 朝鮮人虐殺

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 この大震災にあたって、流言が乱れとんで、針小棒大に流布され、ことに朝鮮人に対する流言蜚語は各所に人心の動揺をもたらしたといってよい。デマほどおそろしいものはない。一例を赤坂区にみよう。
 
  九月一日の夜十時三十分頃、表町署の稲垣巡査は、一名の朝鮮人麻布方面にて襲撃せられ、重傷を負ひて逃げ来るを発見し、取敢へず氷川小学校に連行き、救護班に就きて応急手当を受けしめ夫より之を本署に保護収容したり、之れ実に赤坂区に於て朝鮮人に注意する第一着の出来事なりき、斯くて二日となりたるに誰人が云ひ触らしたりとはなく、朝鮮人に対するあられもなき取沙汰、夫より夫へと伝へられ、疑惧の間に自警団の出現を見るに至りたれば、人心次第に緊張し来りたる時も時三日の午後四時頃、何者か自動車二台、自転車一台を連ねて、朝鮮人二千名三田方面より暴行しつゝ押寄せ来れりと、宣伝しつゝ乃木坂附近を疾走せり、之と相前後して一名の身装卑からざる婦人、三名の女中に扶けられつゝ乃木坂派出所に来り、唯今二千名の朝鮮人六本木方面に押寄せ来りたりと、訴出でしかば居合はせる警官大に驚き、直に六本木方面に赴き偵察したるに、右は全く虚報にして一名の朝鮮人を認めたる歩哨が、之を呼止め取調をなさんとせしに、朝鮮人は逸早く其姿を隠したるより、二三名の歩哨が荐に其行衛を捜索し居たる折柄、其事実が早くも二千名来襲抔と、誇張申告せられたものと明瞭したり。
                                 ――『赤坂区震災誌』
 
 このような状況で、報道機関のまったく絶滅していた当時の群集心理のどんな恐るべきものであるかをみせつけられたといえる。「桧町の如きは女の自警団さえみるに至り」、「現に四日の午後五時頃、福吉町黒田邸正門前に集合したる自警団の如き、竹槍は云ふに及ばず、長刀短銃など思ひ思ひの得物を携帯し居り、其言動往々避難者を畏怖せしむる恐れあり」などと『赤坂区震災誌』は流言による町の人々の当時の異常な心理状態を伝えている。