(1) 地下鉄が開通

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 大正八年(一九一九)四月、市区改正委員会は地下鉄を建設して、東京の交通の円滑を図ることを議決した。そこで市長が翌九年一月、七予定線の認可を得て、これを告示したのが、東京に地下鉄のできるはじめである。ただし、出願した四社のうち、東京地下鉄会社だけが十四年九月から上野――浅草間の工事に着手し、昭和二年(一九二七)十二月に完成開通した。
 その後、七年四月までに三越前まで、十二月には京橋までが開通した。さらに、昭和九年(一九三四)三月三日には銀座まで延長され、六月二十一日待望の銀座――新橋間が開通した。
 大震災後の郊外の発展、とくに中央線沿線の発展は、新宿や渋谷をターミナルとして繁栄させた。人口の激増にともない、中央線は省線(国電)があって何とか通勤者を都心に運ぶのに役立ったが、東横線・井の頭線等の利用で渋谷に集中してくる通勤者の群れを運ぶためには、渋谷駅から省線を利用するだけでは困難で、どうしても都心と結ぶ地下鉄の開設が必要であった。こうした要請に、一方で東京高速鉄道が、渋谷から新橋まで、区内を通る地下鉄の工事を大正十四年から着手した。昭和七年八月、東京地下鉄と東京高速鉄道は合併して東京高速鉄道一つとなり、昭和十三年十一月に虎の門――青山六丁目間が、十二月に青山六丁目――渋谷間が、昭和十四年(一九三九)一月には、虎の門――新橋間が開通をみた。浅草――渋谷間の開通(現在の地下鉄銀座線)は、通勤者ばかりでなく、区内の人々にとって新橋から渋谷に簡単に出られるようになって大好評だった。
 また、この地下鉄開通は、新橋を銀座へ行く人の一つの拠点とし、省線の新橋駅と相まって、交通の利便は、新橋一帯を銀座の延長的な街として発展させ、震災前とは違った形での繁華街にしていった。