東京は震災後の近郊の発展、人口の集中によって、東京一五区と郡部とを合すれば、四九〇万をこえ、昭和五年の国勢調査では、旧一五区だけで二〇七万をこえ、新しく市部に編入される区域のみで二九一万五〇〇〇、合計四九八万六〇〇〇で、大阪市の約二倍という数を示した。
これらの巨大人口のために、旧市域・新市域を通じて東京に集散する貨物の総量は年二〇〇〇万トンを超えたという。その六割五分は、当時陸運によるもので、陸運といってもまだトラック輸送は微々たるもので、ほとんど全部鉄道によるものといってよかった。このおびただしい鉄道貨物の約五割が、汐留駅、隅田駅、秋葉原駅の三大貨物駅で呑吐されている。
これら三駅のうち、区内には旧新橋駅、かつては「汽笛一声新橋を」と発車の起点だった汐留駅がある。
【汐留駅】 汐留駅は、関東大震災後、東京の物資を呑吐して、市民の生活に大きな影響を与える東京南の勝手口といわれ、隅田貨物駅と一、二を争う駅となった。
東海道線方面の物資は汐留駅を仲介として東京に入ってくるし、また、関西方面へ出てゆく貨物も、ここを経て送られるため、かつての汽笛一声の新橋駅としてにぎわったころとはまったく違った台所的重要性を帯びていたといえる。
震災後に膨れあがった東京は、昭和六年の調査によると、だいたい年間入貨物の総量は一八〇万トン、出貨物の四倍に及び、文字どおり東京市民の勝手口たることを示している。入貨は砂利(七一万トン)、果物(九万トン)、木材(六万トン)、酒類(六万トン)、魚類(五万トン)、米(五万トン)を主としている。ことに砂利・酒類・果物は各貨物駅中第一位を占めている。出貨のほうは米の再移出(四万トン)、鉄および鋼製品(三万トン)、機械(二万トン)となっている。どんなに大量の物資が汐留駅へ入ってきたか、また、地方へ出ていったかがわかろう。