震災後の商店比率

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【震災後の商店比率】 見事に復興して、近代都市によみがえった東京は、昭和という年を迎えて、大不況に見舞われたとはいえ、多くの市民の復帰によって、商店は増加の一途をたどり、激烈な競争を演じていた。昭和三年における各区の世帯数一〇〇に対する店舗数の割合をみると、
 
 1日本橋区六七・八七2神田区五二・二一
 3京橋区四九・一〇4浅草区四五・七一
 5麴町区四五・三六6本所区四二・五七
 7下谷区四一・〇一8本郷区三五・九一
 9芝区三五・二二10深川区三一・三四
 11四谷区三〇・八二12赤坂区三〇・二八
 13牛込区二九・三八14麻布区二八・二七
 15小石川区二七・二七

となっていて、当時総世帯の三割から六割は店舗という姿を示してはいるが、芝区が三五%で、一五区中区中九位を占めているほかは、赤坂区が三〇%で一二位、麻布区は三〇%にも達せず二八%、一五区中一四位にすぎなかった。
 麻布・赤坂両区は、住民に対する店舗数の少ない区として、とくに目立つものといえる。そこへゆくと芝区はかなり店舗数も増加して、賑やかな商店街が新橋付近ほか各所に設けられている状況が判明する(昭和三年七月末『東京市産業統計年鑑』)。
 こうして、震災復興は、市内では銀座とか浅草をすばらしい盛り場にし、山の手地区でも神楽坂とか麻布十番のような古い商店街を見事に復興させはしたが、近郊の発展がむしろ新宿や渋谷のような交通上の中継地に新しい商店街をつくり出して、東京を大きく広げた。それが、新しい住民をうけ入れた近郊農村の市域編入運動となってあらわれるのであるが、近代都市に生まれかわったといっても、一五区も一部の地区の点と線の華やかな変身であって、商店なども、銀座のようなモダンな商店はごく一部に限られ、一般的には震災前のようなものを売る店がまだ多くあったことは否定できない。