(2) ビル街の形成

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【ビル】 震災後の区内で、「復興」という言葉を直接印象づけるのは、あかるい近代建築のならんだ市街ということになる。
【会社】 東京駅や有楽町駅周辺とともに、日本橋や銀座に会社企業の華やかな発展がつづけられていったように、主として区内では芝区、ことに新橋駅周辺を中心に、まずビル街の形成があり、それが田村町周辺へ及んで、ビルや倉庫の近代的姿を区民に示すようになっていった。
【会社企業の進捗】 港区地域に日本橋や京橋方面より、はるかにおくれていた会社企業がめざましくなるのは、昭和に入ってからのことであり、資本金五万円未満の群小会社、主として合資会社が急激に増加したためである。
【会社街の形成】 ただ、はやくから虎ノ門から田村町・新橋方面に、丸の内に接する会社街が次第に延長されていき、ビルが完成して、さわやかな街路樹を縫って自動車が走り、サラリーマンの往来がしげくなったことは特記に価しよう。昭和九年(一九三四)ごろのことを述べると、田村町一丁目には公称資本四億の東京電燈株式会社(明治一六・二)をはじめ、東浜電力株式会社(大正一四・六)・富士川電力株式会社(大正一四・六)・関東瓦斯株式会社(昭和三・六)・東京湾電気株式会社(大正一五・五)・保土谷曹達株式会社(大正五・一二)・東電電球株式会社(昭和三・九)・磯村合名会社(大正六・二)・東電証券株式会社(昭和二・三)・日本航空輸送株式会社(昭和三・一一)など、資本金一〇〇万円以上の会社が集まり、さらにそれを追って日産館の九階建てビルも加わり、日産コンツェルンの威容を誇示するなど、とくに注目すべき発達があった。