大震災によって大きな痛手をうけた区内も、復興事業が軌道にのって、見違えるような近代建築がぞくぞくと誕生して、モダンな都会的風景を展開した。
区内で商店街として賑やかさをもっとも早く取りもどしたのは何といっても、銀座の延長としての新橋であった。新橋駅をはさんでの両側の商店街で、一つの盛り場を形成していった。
昭和十三年刊『芝区誌』は新橋方面の景況を記して、次のように伝えている。
新橋一丁目 新橋・難波橋・土橋を渡れば帝都のシャンゼリゼーである銀座の表通りや裏通りに達しうる銀座続きの街である。従ってカフエー・バー等を始め各種の料理店多く裏小路にともるネオンサインや巷に流れるジャズの響きにさそわれてくる人も少くない……
新橋二丁目 新橋駅前に至れば、此処はまたカフエー・バー・喫茶店・小料理屋・寿司屋が日陰町通りを中心として大路小路に氾濫している。小粋な飲み屋や、近代的な茶寮が美しく竝び、江戸前の鮨を美味しく喰べさせる「新富鮨」もこの一角に、新橋駅には西洋料理店「精養軒」があり、二番地の角にある「太田屋」は堂々四階建のビルディングに日本座敷を設らへた牛肉屋として知られている。その四階は新橋ダンスホールとして区内唯一のダンスホールであり、百名近くのダンサーが裸身に薄衣を纒うて此処に侍る。サキソホーンの響き、赤や緑の光の波に揺られて踊る男女の群は青春の夢を愉むかのやうにリズムの三昧境に浸っている。近代娯楽の華と咲き出でたこのダンスホールはこの町の花明柳暗の巷と面白い対照をなしている。
さて省線ガード下を潜れば旧烏森の町域にして、其一帯は柳の街路樹を艶かしく検番前通りを中心とする芸者屋町である。爪弾もつれづれなる昼の静けさが暮れて、宵灯がともれば太鼓や芸妓等の嬌声が賑やかとなる。十六番地に新橋三業組合の検番があり、鳥料理「末げん」(二四番地)、割烹料理「古今亭」(四〇番地)等の大旗亭を始め、鮨屋に信田(稲荷)鰭で名高い吉益支店(三〇番地)がある。新橋駅西側の真下にある大カフエー「処女林」は亦この町の一名物であろう。ネオンサインで満艦飾の軍艦を模した三階建の館内に約二百名に垂んとする女給群を擁し、ここは浮き立つようなレコードの旋律の裡にビールの満をひく近代人の娯楽場であり、夢幻的なサービスで知られている。まことに、新橋二丁目はこれらの新しき匂ひと、古い夢とが重り合って我が区最大の盛り場をなしている。
銀座から新橋にかけて、盛り場はネオンのもとで、享楽の仇花(あだばな)をさかせ、一歩裏通りに入れば飲食店、カフエー・バー・特殊喫茶・おでん屋が軒なみという状況を呈した。商店街としての新橋の発展に一歩先行して、こうした享楽の巷としての新橋が、銀ブラの延長的存在として繁栄した。「女給」の名でよばれた女性たちを目当てに、多くのサラリーマンのむらがるところとして発展していった。それにつれて、山の手の台地方面にも商店街、繁華街が小地域ながらも各所にできていった。
芝地区でも琴平町や神谷町などにも、小さいが線的な商店街が賑やかになっていき、また田町から三田にかけては一種独特の慶応の学生街的賑いが復活した。
赤坂や麻布の地区にも震災後、商家が住宅地に変わったところが、かなりできていったといえる。
まず、もう一つの細い線的な繁華な商店街が形成されたのが赤坂の一ツ木から新町へかけてのいわゆる一ツ木通りである。土地柄、赤坂花街との関連をもって発展したが、決してカフエーや飲み屋の歓楽街ではなく、日常生活品の店が大部分をしめていた。
【麻布十番】 六本木辺は、別にどうということなく、あまり賑やな商店街とはいえないものだった。これに反して麻布十番が、この辺きっての繁華な商店街にのし上がった。震災前から一ノ橋から日ケ窪にかけて商店街があったが、復興後は、そうした単に麻布区内の一商店街というより、東京市内における山の手の商店街として、牛込の神楽坂か、麻布十番かといわれるほどの代表的商店街にのびていった。
もちろん、ここを中心として周囲の発展が大きくものをいった。元麻布や六本木、永坂の人々が買い物にくるばかりか、三田の人々まで一部の者がここにくるといった、文字どおり旧市内山の手の繁華街の代表といった商店街になった。映画館もあり、飲み屋もあり、学生たちをひきつける要素もあった。
満州国独立、五・一五事件、昭和十一年の二・二六事件からさらには日中戦争へと時局は大きくゆれ動いていたが、それでもまだまだ東京の市民生活は平和だったといえる。低物価による比較的安定した毎日が、しばらくこうした盛り場の遊興飲食街の繁栄を助長し、〝赤い灯・青い灯〟の賑やかな町といった光景を呈していた