(2) 区内の花街

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【花街】 震災後見違えるような近代建築の林立する東京に生れ変わったといっても、昭和二年の大恐慌の波がおしよせて以来、不況につぐ不況にあえいでいた。前述したように、そこに市民の〝心のうさのすてどころ〟の歓楽街の発展する重要な因子があった。いわゆる新橋南地の花街、それに赤坂の花柳界の発展も、震災後の区内の状況を物語るに、かかせないものの一つであろう。
 花柳界の復興発展もまた目覚ましかった。当時、新橋芸者といえば、震災前よりずっと数は減少したとはいえ、主として銀座通り両側の裏通りを中心にした料亭・待合を根城にしていたのが、西側の金春新道(じんみち)を彼女たちの本拠のようにして、政界人財界人の密談の席にも侍って、随分思い上がった振舞いの者もいたが、それが新橋の特色のようにいわれたものだった。
 同じ新橋といっても、中央区側の銀座、いわゆる明治以来の煉瓦地とは別に、新橋をこえた区内側は、新橋南地とか烏森とよばれ、広い意味では新橋芸者に属するが、料亭湖月が牛耳をとり、桝田屋、浜の屋などの待合をひかえて、橋の向こうの金春芸者たちとはまったく違った趣をもっていたといえる。
 区内には、この烏森のほかに、震災後めきめきと花柳界の一等地にのし上がった赤坂が別格として新橋に対抗する勢いをもっていた。
 溜池通りの両側裏通りにまたがっていて、新橋などよりずっと遅れて発展した花柳界なのだが、かつて海軍側または海運業者側の引き立てで急速にのび、一時震災前に新橋をしのぐほどの勢いを示したこともあった。
 「震災前には東京の花柳界に唯一カ所といわれたダンス場を設備したほどの待合『三しま』があるために著しくその方面に進展して、いまでも東京花柳界でのモダーンぶりを発揮しており、一方には某々大臣級の人々の根城たる待合『中川』、『永楽』その他『長谷川』等々があり、特殊料理としてはこの土地に最も由緒のある『三河家』、『宇佐美』などがあり、もっともっとこの土地の重鎮として『林家』、『春本』つづいて『清士』の三芸者屋がどっしりと根を据えているので、殊によったら実質的に新橋を凌いでいるものと見ても過言ではあるまい。」(中央公論社、昭和四年末『新版東京案内』)といわれるほどの発展ぶりを示し、震災後の赤坂の繁栄は、他の花柳界を驚嘆させるほどだった。
 しかし、こうした区内の花柳界もたちまち不況に見舞われた。
 震災後、たち直った花柳界は、区内の新橋南地をはじめ、芝浦、赤坂、麻布も、昭和二年のモラトリアム以来、大不況に見舞われ、そのうえ、カフエー・バーや特殊喫茶、あるいはダンスホールなどの盛況にはさみうちされ、「現代社会から見はなされはすまいかという不安が、黒雲のやうに襲ひかけてゐるために」(『新版東京案内』)玉代などを値下げして、対抗策を考えるほどの状況になっていった。そこに花街の悩みがあった。