区内には震災前から、かなり聞こえた料亭があったが、震災復興後は、一般庶民大衆には少し入りにくい場所になっていった。昭和初年、東京市内で「料理店」と名のつくものが八三九軒といわれた。全部が高級料亭ではないにしても、洋食ばやりの震災後の「モダン東京」で、「ふところ工合を一応調べて見なければうっかり入れぬ」ような(『新版東京案内』)日本料理などのうち、区内で知られた店を、ざっと次にかかげておこう。
中央公論で出した震災後の〝復興東京〟を物語る『新版東京案内』(昭和四年刊)によると、当時東京で知られた店として、次のように報じている。
赤坂山王台に気高く構へゐる星ケ丘は、値段が高い丈けあってやつぱり食べた気がするが、最近銀座の木村パン屋の裏へ進出したこゝの遊軍の銀茶寮は、表構へは如何にも瀟洒として風雅な家に見えるが、星ケ丘茶寮の出店としては、すべてに於いて少し物足りぬといふ気がする。
新橋の花月などは、ちよっとした晩餐にも十円か十五円は取る、ブルジョア以外の者にとっては先づ思ひも及ばぬ贅沢さだと言っていゝ。これに比べると、芝の紅葉館は、庭の眺めもいゝのに女中が踊ったりしてくれて同じ金を取られるにしても、一人いゝ気持に酔へるだけ楽しみである。しかし花月も、人は宴会料理屋だといって問題にせぬやうであるが、食べるやうに食べればあれで中々うまい方だといふ説がある。芝烏森の湖月も、さういへば相当自慢していゝ庖丁と風味を持ってゐるといって、こゝの気分と献立を頻りに賞讃してゐる人がゐるやうだ。(中略)赤坂の山王下の瓢亭は、京都の瓢亭と同店であるが、京都の本店と比べて、そんなに劣ってゐるとも思はれない。麻布に興津庵があるが、高いので簡単に入れぬ恨みがある。
このほか、やはり大衆的には新橋駅近くの「花丸」は鍋物に評判高く、またうなぎでは麻布の「大和田」が古くから知られていた。
西洋料理では震災後めきめき名をあげた赤坂の「ボントン」などがあった。
こうした〝高級〟とか〝ハイカラ〟にかわって、〝モダン〟な店というのが震災復興後の一つの特色で、銀座とは別に、区内にもそうした特別の店がいくつか次第にできて、名物として知られるようになっていった。