市域拡張

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 大震災後の市民の急激な外延的膨張は、東京市に近接する郡部の八二カ町村に対し、次第に都市化の傾向を強めた。市内を逃れて郊外に住みついた市民は、通勤という形で旧市内に通ってきたが、旧市内に諸施設の充実した恩恵をうけているのに、郊外の諸施設は余りにも貧弱であった。住居地区への不満は高まる一方で、一五区と各町村との間に二、三の例外を除いて何らの連絡もなく、あらゆる施設の不完全不徹底が、居住町村の都市施設完備の要望となって大東京実現の機運を呼び、市と呼応した都市計画を行なうためにも市域の拡張を行なうのがよいと隣接各町村が合併市域編入を働きかけ、市も国と府の二重監督行政の不合理解消の前提として合併に大賛成であった。
 そして、三多摩を除く郡部全体が編入を希望し、府も市も再三会議を開き、その準備なって、昭和七年(一九三二)十月一日待望の大東京市が成立した。
 この併合で、近接五郡八二カ町村は二〇区に分かれ、旧一五区とともに三五区となった。(ついで昭和十一年世田谷区に北多摩郡の千歳、烏山両村の編入が行なわれた。)
 この時、三五区の区長は任命区長で、芝区長には高田賢治郎が、麻布区長には赤羽幾一が、赤坂区長には山崎平吉が、それぞれ任命された。