(2) 東京港開港

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【築港計画】 市区改正事業とセットになって計画された「品海築港計画」は明治十八年政府の決裁というところまで持ちこみながら、たまたま政府の太政官制廃止、内閣制度出発という明治期における大改革に遭遇したうえ、横浜側の猛反対にあって遂につぶれ去ったといわれている。この間、松田府知事の現役中途での死去、そのあとをついた芳川顕正の努力もむなしかった。さらに市会に星亨の登場によって、築港計画は軌道にのり、月島の埋立ても完成し、芝浦から築地にかけて横浜をしのぐ大築港計画が、着手というところまでこぎつけながら、明治三十四年六月二十一日市参事会の会議室で星亨が伊庭想太郎のために刺殺され、遂に実現をみるに至らなかった。
 しかし、横浜港の発展を横目にみながら東京築港を夢みていた東京市民の識者のうちに、再び築港問題を持ち出すチャンスがきた。それは、関東大震災の折である。
 大正十二年九月一日の大震火災により、東京は焼土と化した。アメリカの救援物資を積んだ船が芝浦について荷をおろそうとしても、桟橋まで、船足が浅くてどうにも近づけなかった。(江戸時代から船足六尺以上の船は無理だった。)アメリカ側は、市民救援の物資を積んできたのだからと、やむなく船底を傷つけてまで強行横付けすることをやってくれた。このことは一般に東京築港の必要性を痛感させた。
 その後、東京はまったく新しい近代都市に生まれ変わり、ネオンに輝く大都会に変貌した。ここで再び築港の問題が論議され出したが、横浜の反対は猛烈を極め、東京側も到底築港は困難とみて、「開港」という言葉にすりかえていった。
【東京港】 昭和六年満洲事変勃発以来、日中事変の拡大につれて、東京港の開港の必要性が国策線上に浮かんできた。もはや、横浜港を中継ぎ港としている時代ではないとして、東京開港を芝浦にという意見が強力におし進められた。
 しかし、横浜側の東京港開港反対も猛烈となり、政界財界をあげての大問題になっていった。
 一方、芝浦は大船横付けの必要から、その後港湾施設が着々として完成していき、昭和九年までに日の出桟橋、芝浦岸壁、竹芝桟橋とつぎつぎに完成して、三~四〇〇〇トン級の大船が楽々と繋留できるようになり、大きな変貌をとげていった。
 
【芝浦岸壁】 芝浦岸壁(海岸三丁目)は延九一〇メートルの鉄筋コンクリート潜函構造のもので、昭和七年二月完成し、はじめて六〇〇〇トン級の船舶七隻が同時繋留しうることとなった。
【日の出桟橋】 日の出桟橋(海岸三丁目)は大正十四年完成し、その後貨物殺到によって大船のためにしばしば海底の掘鑿、浚渫を繰り返し、同十五年延長五六四メートルの鉄筋コンクリート造りの桟橋に改装されて、はじめて三〇〇〇トン内外の船舶六隻が同時繋留されることとなった。
【竹芝桟橋】 竹芝桟橋(海岸一丁目)延長三〇九メートルの鉄筋コンクリート造りが昭和九年に完成し、ここでも三〇〇〇トン級の船舶三隻を同時繋留しうることとなった。
 
 これは横浜側を刺激せずにはおかなかった。
 しかし、東京側も頼母木桂吉市長は神戸で開かれた日本船主協会の総会に出席して、開港促進の協力をとりつけ、機熟したかにみえた時、十五年二月病に倒れて、開港をみずに現職のまま死去するという事故に見舞われ、横浜側の反対一層激化して、一時は開港も危ぶまれたが、戦時下であり、物資輸送が国策の線より必要欠くべからざるものとして、遂に横浜の反対を押しきって昭和十六年五月二十日、明治以来市民の熱望した東京港開港が実現をみるに至ったのである。
 市電はわざわざ芝橋の停留場を東京港口と改称、芝浦金杉辺の人々の喜びはいうまでもなく、五月二十日は東京中が歓喜にわいたといってよい。
 
  七百万市民待望の「東京港」開港――躍進する帝都が漲る力で押し開けた海の玄関……が二十日華々しく誕生した。この日歓喜にわく芝浦埠頭は涼風に飜る大国旗、装飾燈で美しく飾られ、市電芝橋停留場は「東京港口」と改名されて新装を誇れば、臨港地区一帯の家々でも国旗を掲揚して喜びを競ふ。午前九時濃緑に澄んだ海面をすべるやうに入港の第一船、上海からの東亜海運妙見丸(五千トン)だ。……一方市内は市役所、銀座、浅草等の六箇所の上空にアドバルーンが浮揚され、各百貨店等十八箇所に、〝記念開港〟の懸垂幕、市営造物、市立学校、市電、バスには国旗、市立学校では朝礼の時間に、開港に関する訓話が行はれた。伸び行く東京港、我等のミナト……初夏の陽光の下、海に陸に空に、東京市は慶祝の一色にひたっている。……(『東京朝日新聞』五月二十日夕刊)