(3) 昭和初期の初等教育

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 関東大震災は教育方面にも大きな打撃を与えた。しかし、復興事業は思いのほかはかどって、その回復もまた速やかであった。
 芝区のうけた打撃は大きかったが、逆に小学校はより近代的な建物となって復興をみた。
 ただもう、ほとんどの児童が洋服になり、運動靴で通学という状態になっていった。はじめはまだ男子は肩かけカバン、それが手提げカバンとなり、やがてランドセルを背負う姿にと変化していくのである。女子も、和服に袴といった姿で通学することはまったくといってよいほどなくなり、洋装に変化していった。それがむしろ児童の体位の向上につながっていったともいえる。
 震災復興後の区内小学校児童はまったく新しい施設による快適な教育をうけたといってよい。区内のような都心地区において特にその感が強く、戦時体制に入る前の十数年は、不況下とはいえ、のびのびとすごせるよき時代だった。
 だいたいにおいて、震災復興がまったく完了し、近接五郡に人口の異常な増大をきたし、それらの地域を包括して大東京市をつくりあげようといった昭和六年の時点では、もう区内の人口はあまり増加せず、大きくみれば頭うちに近い状態といってよかった。したがって、当時の区内小学校は区部に隣接した町村のように、どんどん増加につぐ増加といった就学児童の収容対策に追われどおしという状態ではなかったといってよい。
 いま、ここで昭和六年現在の当時の三区の小学校(高等小学校を含む)をみると、
 
芝   区麻 布 区赤 坂 区
小学校数児 童 数小学校数児 童 数小学校数児 童 数
二〇一八、六〇〇一〇九、三四八五、九九五

 
となっており、芝区が児童数においても、学校数においても麻布区の倍という姿であり、赤坂区はさらに校数も児童数も少ないという状況を示している。